大浜流灌頂2016



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  福岡市博多区大博町で開かれていた「大浜流灌頂」に最終日の26日行ってきた。台風10号の接近で終日風が強く、空模様も少し怪しかったため、残念ながら呼び物の武者絵大灯篭は会場の路地には飾られていなかった。代わって旧大浜公民館に屋内展示されていた。「博多最後の絵師」と呼ばれる海老崎雪溪の絵は迫力あったが、やはりこれは屋外で灯篭として見るものだと思った。

 大浜流灌頂は、宝暦5年(1755)の風水害犠牲者らを供養するため宝暦6年から続いていると伝わる祭りで、かつては「博多の夏祭の最後をかざる大祭」(『博多年中行事』 佐々木滋寛、九州土俗研究会、 1935)だったという。現在も博多の夏祭りを締めくくる存在であることには変わりはなく、露店が並ぶ会場は近隣住民と思われる人たちで大にぎわいしていたが、大祭と呼べる規模ではない。『福岡町名散歩』(井上精三、葦書房、1983)によると、近くにあった柳町遊郭が移転して以降、次第に寂れていったという(遊郭の移転完了は1911年)。

 『博多年中行事』には柳町遊郭があった頃の流灌頂について「この祭の夜は妓楼の軒には桜の造花をかざり、遊女の源氏名を書いた雪洞を吊して、祭礼気分が溢れていた」と書かれている。遊郭があった時代の流灌頂の風情を懐かしんでいるような文章だが、『博多年中行事』著者の佐々木滋寛(1899~1976)は、名前で想像できるように僧侶(博多区千代の松源寺住職)が本職だった。1899年生まれだから、子供時代に見た祭りの華やかさが目に焼き付いていたのだろう。

 現在の流灌頂の名物は、冒頭書いたように3基の武者絵大灯篭だが、『博多年中行事』にはこれについての記載はなく、代わって祭りの飾り物としては野外に造られた人形が紹介されている。この人形は「蚊帳で作った山を背景として鎧武者の奮戦の場を作った」ものが多かったという。製作に手間暇の掛かる武者人形に代わって武者絵大灯篭が飾られるようになったのではないかと想像したが、『博多年中行事』とほぼ同時期に出版された博多のガイド本『筑前博多』(福岡協和会編、1938)には人形、大灯篭の両方が紹介されており、併存していた時期があったことになる。

 大灯篭は1958年に県の有形民俗文化財に指定されている。貴重なものだから、大灯篭の登場は天候次第で、今夜のように目に出来ないこともままあるようだ。絵の作者の海老崎雪溪についての情報はあまりないが、旧大浜公民館でもらった『大浜流灌頂栞』によると、明治9年(1876)の生まれで、「幼少より画筆に秀で、長じて“雪溪”と号す。芥屋町、土居町、上対馬小路において画筆に没頭」とあった。昭和16年(1941)、急性肺炎により没したという。

 『博多年中行事』は『新修福岡市史 民俗編一』に再録されているほか、国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができる。
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