九大から元寇防塁出土

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 福岡市東区の九州大箱崎キャンパスから元寇防塁と思われる石積み遺構が出土したというので、22日現地に行ってきた。だが、中央図書館裏の発掘現場はシートで覆われ、残念ながら問題の石積みを見学することは出来なかった。市民向けの説明会は前日21日に開かれていたのだが、平日のためこちらは仕事。祝日を待って出掛けたのだが、今度は発掘調査が休みだった。嫌な予感はしていたのだが…。

 仕方がないので、発掘現場のすぐ東側にある国指定史跡、地蔵松原の元寇防塁跡を見てきた。防塁跡とは言っても、地蔵松原公園の一角に「史蹟 元寇防塁」と刻まれた石碑と説明板が立っているだけで、遺構が残っているわけではない。平成に入って行われた発掘調査では石材が確認されただけで、このため今回九大で発掘された遺構について「博多湾東部で、元寇防塁が原型に近い状態で発見されるのは初めて」と報道されている。

 しかし、地藏松原公園の説明板によると、大正時代に行われた調査ではここでも石積み遺構が確認されたらしく、「防塁の構造は、前面に石積みし、後面は粘土で固めていた」という。これは報道されている九大の遺構の構造と全く同じで、全体が石で築かれた今津の防塁などとは異なる。間違いなく連続した遺構だろう。それにしても地蔵松原の遺構はいつ失われたのだろうか。

 元寇防塁とは、1274年の「文永の役」後、元軍の再度の侵攻に備え、鎌倉幕府の命で九州各国が分担して築いた防壁で、東は香椎から西の今津まで延長20㌔にわたって博多湾の守りを固めていたと言われる。箱崎地区の防塁を築いたのは薩摩の国だと伝えられている。1281年の「弘安の役」では、この防塁が実際に元軍の上陸を阻み、元軍がいったん態勢を立て直すため退いたところを暴風雨が襲い、壊滅したという。

 しかし、イデオロギーに凝り固まった福教組の教員たちは昭和時代、「元寇防塁など無用の長物で、後の時代に石が漬物石として役立ったぐらいだ」と平気で教えていたことを以前紹介した(
「福教組が歪めた元寇」)。防塁の石が漬物石として使われたのは嘘ではないかもしれないが、それ以上に福岡城の石垣に転用された方が多いことだろう。

 今回、九大で見つかった防塁遺構は、西日本新聞記事によると、 高さ0.9㍍、幅2㍍、長さ17㍍の規模。予想外の場所から突如として出土したというわけではなく、文化財保護法に基づき「元寇防塁包蔵地」に指定されていた区域の一角、つまり遺構が見つかる可能性があると思われていた場所だ。発掘調査は九大の伊都キャンパス(西区)への移転に伴うものだが、九大箱崎キャンパスには元寇防塁だけでなく、中世の集落遺跡・箱崎遺跡も眠っていると考えられている。伊都キャンパス内にある桑原・元岡遺跡群からは飛鳥時代の製鉄遺跡などが見つかり、福岡市が発掘調査に追われたが、箱崎キャンパスからも今後、校舎等の解体に伴い続々と遺跡が見つかるかもしれない。


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