川南造船所敷地を埋め立てたのは?

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 廃虚として有名な存在だった川南造船所跡(佐賀県伊万里市)についての話を続けさせていただきたい。同造船所に関する情報を漁っていて、用地埋め立てに絡む、少し面白い資料を見つけた。『伊萬里港公有水面埋立の件』と題された昭和10年(1935)9月5日付の海軍省の文書で、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブに収録されている。中身は、伊万里港内の「佐賀県西松浦郡西山代村大字立岩字浦ノ崎二番古里地先三二、〇五三平方米」で計画されている埋め立てについて、海軍省が「本件当省主管上異存無之候」と内務省に回答したものだ。埋立免許を与えるのは当時も今も知事だが、時代が時代だけに海軍の了解が必要だったのだろう。

 文書には海軍省だけでなく軍令部の決済印も多数押されている。大臣の印は「済」、軍令部総長の印は「閲」だが、それ以外は個人の認め印が押されており、海軍省次官は「長谷川」、軍令部次長は「加藤」の印がある。文書が残された1935年9月当時の海軍首脳を調べてみると、海軍大臣が大角岑生、次官が長谷川清、軍令部総長が伏見宮博恭王、次長が加藤隆義という顔ぶれだった。この時代に海軍省と軍令部の力関係が逆転したと評されたり、長谷川清の孫に『ウルトラマン』の監督として有名な実相寺昭雄がいたりなど、色々興味深い点もあるが、ここではスルーしておく。

 この文書を面白いと思ったのは、埋め立ての起業者が川南豊作となっていた点だ。埋め立て予定地の場所や面積から考えて、この場所に後の川南造船所が建てられたのは間違いない。だとしたら経営していた川南工業社長、川南豊作の名前があっても別に不思議ではないが、インターネット上に「閉鎖されたガラス工場を川南が買い取り、軍需工場に転用した」との情報があったため、川南自身がこの土地の埋め立てを行っていたとは予想外だったのだ。

 他の資料を当たってみると、海軍省文書から3年後に出版された『事変下の有望会社』(投資経済社、1938)という資料には川南工業が「浦崎工業所」でソーダ灰と板ガラスを製造していたことが明記されていた。造船所の前身がガラス工場であったのは間違いないが、このガラス工場は川南工業が海を埋め立て、建設したものだったことになる。

 ただ、そうなると不可解な点も出てくる。川南造船所の廃虚が長らく放置されていたのは、建物の権利関係が複雑だったことに加え、埋め立ての途中で免許が失効したため“造船所敷地が法律上は公有水面のままで、土地ではなかった”ことが問題をややこしくしたとされている(2005年9月の佐賀県議会でも当時の知事が証言している)。川南工業が法的にはうやむやの土地建物を安く買いたたいたため、こんな事態が生じたと思っていたが、同社自身がうやむやにしたのならば、理屈に合わない話だ。

 先の海軍省文書によると、埋め立て工期の期限は、竣功が「着手の日ヨリ三ヶ年以内」。 『事変下の有望会社』出版の1938年にはソーダ灰、板ガラス工場が稼働していたのだから、川南側がなぜ竣功認可の手続きを取らなかったのか理由がわからない。川南豊作は戦後、経営破綻の際に不渡り手形を乱発して巨額の金を詐取したり、さらにはクーデター未遂の「三無事件」を引き起こしたりした人物で、あまり遵法精神があったとは思われない。あくまでもこの人物像から考えての臆測だが、工場敷地を法律上は公有水面のままにしておくことで、例えば固定資産税を免れるなどの狙いでもあったのだろうか。
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