続・鶴城高女を探して


 「鶴城高女を探して」へのコメントで「鶴城高女の『第六回卒業記念写真帳』が福岡県立図書館に所蔵されている」との情報を頂いた。図書館に問い合わせたところ、閲覧可能ということだったので、現物を見てきた。タイトル通り、1928年(昭和3)の卒業アルバムで、セーラー服姿の卒業生の顔写真をはじめ、修学旅行や運動会、バザーなど学園生活の模様を記録した写真が収録されていた。現在の高校卒業アルバムと比べれば、かなりシンプルな作りで、掲載写真も少ない印象だった。

 創立年と校名の移り変わり以外はわからないことだらけの鶴城高女だったが、この卒業記念写真帳により1928年の卒業生は100人で、教職員数は23人だったことがわかった。卒業生数が一学年の定員で、修業年限が5年だったと仮定すれば、この頃の学校規模は最大500人程度だったと思われる。卒業生の住所は多くは福岡市内だったが、長崎、佐賀、熊本、さらには広島など県外からの入学者も散見され、卒業記念写真帳には県外生が暮らしていたと思われる寄宿舎の写真も掲載されていた。

 修学旅行は1927年10月18~23日の6日間。序盤は東大寺大仏殿や清水寺など奈良・京都の名所を巡るというオーソドックスなものだが、ところがこれで終わりでなく、瀬戸内海航路でいったん九州に戻り、旅の最後は大分県の宇佐、別府で締めくくるという、ある意味豪華版だった。

 
国立国会図書館デジタルコレクションでさらに他の資料を探してみたところ、『福岡市』(清原伊勢雄編、福岡市編纂部、1916)という資料の中に簡単な記載があった。当時の校名は福岡実科高女で、「福岡今泉町にあり、明治四十五年の設立にして元技芸女学館を拡張したるもの也、現在の生徒百二十名にして教職員十名現校小野正躬なり」と説明されていた。この頃の全校生徒120人から、1928年には卒業生だけで100人になっているわけだから、12年の間に学校規模はかなり拡大したと判断できる。校長の小野正躬は創立者。明治45年設立と書かれているが、 「鶴城高女を探して」で取り上げた『福岡県教育百年史』には明治35年設立とあった。

 また、1938年(昭和13)5月現在の 『高等女学校女子実業学校職員録』には当時の生徒数が1~4年生で計313人、これに加え専攻科に6人、教員養成所に56人が在籍していたことが記されている。ちなみに新制高校として福岡市内に現存している各校の生徒数は、私立筑紫高女(現・筑紫女学園)が923人、九州高女 (現・福大若葉)が775人+専攻科41人、福岡女(現・福岡女学院)が391人+専攻科42人、福岡女子商(現・福岡雙葉)が356人と、いずれも鶴城高女を上回っていた。なお、鶴城高女の学年ごとの在籍者は1年129人、2年50人、3年90人、4年44人。他校、中でも1学年約230人で一定している筑紫高女と比べてデコボコが激しく、この頃の学校経営は果たして順調だったのだろうかと疑われるところがある。

 廃校の経緯は依然不明のままだが、名前さえ聞いたことがなかった鶴城高女の姿が少し見えてきた気がする。
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コメント

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鶴城高女の跡地

 早速の追加調査報告UPありがとうございました。
 戦後生まれの私は当然鶴城高女については何の知識/記憶もありませんが、UPしていただいた当時の地図をみて思い出したことがあります。 
 それはその跡地に(今は無き)フクニチ新聞本社があって、当時KG中生だった私は帰路寄り道して掲示板に張り出されたフクニチの早版をいつも立ち読みしていました。 
 フクニチ新聞本社は昭和31年10月にこの地に移転しましたが、これだけの広さのの土地が戦後10年を経ても、まとまって残っていたのは女学校跡地であった為と初めて合点がいきました。 
 現在は天神プレイスとトッパンビルが建っていますが、苛烈な戦災にもかかわらず川の流れと道路の線形が当時のままである事にある種の安堵感を覚えました。

Re: 鶴城高女の跡地

 書き忘れていましたが、地図は1927年(昭和2)の福岡市街図です。鶴城高女跡に現在、凸版印刷があるのは気付いていましたが、フクニチ新聞までは想いが至りませんでした。『光芒!フクニチ新聞』(フクニチOB会編、葦書房、1996)を確認したところ、「薬院新川沿いの鶴城女学校の跡地、本庄町一丁目(現在の薬院一丁目一七―二八、凸版印刷西日本事業部の所在地)に社屋を建て、輪転機を据えつけたのが、二十四年の年初めだった」と確かに書かれていました。ご指摘ありがとうございます。