的臣は浮羽にいたのか

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 「山苞の道は古墳ロード」の中で、的臣(いくはのおみ)という名前をチラッと出した。古墳時代後期としては九州最大の前方後円墳「田主丸大塚古墳」(国史跡、久留米市田主丸町)の被葬者が的臣の首長ではないかという説を取り上げ、のんきに「“的臣の墓”であるよりも“謎に包まれた古墳”である方が個人的には魅力を感じる」と書いたのだ。しかし、考えてみれば、的臣が何者だったのか恥ずかしながら知らない。どんな氏族だったのだろうか。

 まず、田主丸大塚古墳が的臣の墓だという説があるのは、的臣が田主丸を含めた古代の浮羽(生葉、以久波とも表記)を治めていたと思われるためだが、これを記録した文献が残っているわけではないという。氏族名と地名の読みが近い、または一致することからの推測のようだ。

 もともとは畿内豪族だったらしく、『国史大辞典』(吉川弘文館、1979)には「いくはうじ 的氏 古代の有力氏族。臣(おみ)を姓(かばね)とする。『古事記』は、建内宿禰の子葛城長江曾都毘古(そつひこ)の子孫とする。『新撰姓氏録』河内・和泉・山城条にもみえる」とあった。さらに、氏族名は地名に由来すると思われること、宮城十二門の中に「的門」があり、軍事を職掌とした氏族と考えられること、欽明天皇の時代に任那に駐留したとされるなど朝鮮半島との関係が深いことが列挙されていた。一方で、浮羽と関連づける記載は一切ない。

 この項目の執筆者は、古代史を専門とする歴史学者、直木孝次郎氏(大阪市立大名誉教授)だったので、同氏の『的氏に関する一考察』(1961)を論文検索システムの「CiNii」で探しだして読んでみた。内容的には『国史大辞典』の記述をさらに詳しくしたもので、大辞典の説明ではわかりにくかった宮城十二門のくだりについては、平城京の十二門は氏族の名前を冠しており、これらの氏族は宮城警護に当たっていた、すなわち軍事的氏族だったと考えられると説明されていた。

 氏族名の由来となった本拠地については、直木氏は筑紫八女県的邑、筑後国生葉郡をはじめ、山城、尾張、淡路の各地にある“イクハ”を挙げながらも、「これらの地名は、的臣と関係があるとはいえない」と一刀両断。代わって<1>文献資料に見られる的氏の分布地域は河内、山城、近江、播磨に限られ、中でも分布の中心は河内、山城<2>同族とされる氏族の大半が畿内か近国の地名を負っている――等の理由から畿内豪族だったとしたうえで、本拠地は軍事上の要地であり、水運の便に恵まれていた河内地方の大和川流域だったと提唱されている。ただし、肝心の“イクハ”地名はこの地では見つけることができず、附記には「イクハの地名が大和川流域の地に発見される望みは、将来に期さなければならぬ」と書かれていた。

 一方、地元・田主丸で旧町時代に編まれた『田主丸町誌―ムラとムラびと』(1996)は「豪族名と地名が一致すること、朝鮮半島にもたびたび出兵していること、初期の月の岡古墳がほかの古墳と違って、畿内的要素が強いことなどから、的臣がこの地方に定着したものと考えられる」と、的臣が畿内から浮羽に移り、在地豪族化したとの見方を提示している。豪族名と地名の一致以外は根拠が薄い気がするが、直木氏論文では、的臣は6世紀半ばから末にかけて朝鮮支配に関して栄えたと考えられるという。6世紀後半とされる田主丸大塚古墳の築造時期と一致する。町誌は大塚古墳の被葬者として言及しているわけではないが、巨大古墳の造営者として最盛期の的臣は不足のない存在だろう。

 ただ、的臣が少なくとも古墳時代後期には浮羽に定着していたとしたら、1世紀以上も後の平城京時代に宮城警護の任に当たることができたのか疑問が生まれる。また、氏族名と地名との関係にしても、領地にちなんでイクハを名乗ったのか、的氏の領地になったことで地名がイクハ(ウキハ)になったのか判然としない。町誌が唱える“的臣西遷説”は色々とモヤモヤした部分が残り、直木説のように的臣と浮羽とは最初から無関係と考えた方がスッキリする気はする。

 なお、田主丸町は2005年、合併によって現在は久留米市の一部となり、田主丸大塚古墳一帯は久留米市によって史跡公園として整備された。現地説明板には的臣はおろか、被葬者に関する記載は一切なかった。発掘調査報告書は複数出版されているようなので、機会があれば読んでみようと思う。
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