地行の由来

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 検索サイトに「地行 地名の由来」と入力すると、比較的上位にこのブログの過去記事
「地行にあるのに西新?」が表示される。このためにこのブログを訪問される方が散見され、以前から心苦しく思っていた。「地行にあるのに西新?」は、地行(じぎょう)に新築されているマンションが西新を名乗っていることを取り上げた話で、地名の由来についてはひと言も触れていないからだ。実際に由来を解説しているページ自体もネット上には見当たらないようなので、この機会に調べてみた。結論から言えば、新たな宅地開発を意味する言葉がそのまま地名となったというものだった。(地図で赤く囲った箇所が現在の地行)

 最初に、この町が生まれた経緯について紹介しておくと、1709年(宝永6)に完成した貝原益軒の地誌『筑前国続風土記』には次のように書かれている。

 「昔は荒戸の西より百道原の末、早良川の遠干潟の際迄、平沙邈々として広く、松林なくして不毛の地成しかば、長政公松を植て松原とすべしとて、(中略)福岡、博多、姪浜の町人に仰て、毎家一軒より、高さ四五尺許なる小松、各一本宛植させられける。(中略)又唐人町の北、今の士屋敷に成れる所、又其西地形と云所、金龍寺の辺迄も、皆此時植し松原なりしが、唐人町の北は、寛永二十年の比より諸士の宅となり、其西の松原は慶安の比、足軽の屋敷と成て地形と名付」。

 黒田長政が筑前に入国した当初、荒戸から室見川河口の辺りまでは不毛の砂地だったため、町人に命じて松を植えさせ、一帯は松原(防潮林)となった。このうち唐人町西側の松林は慶安年間(1648~51)、足軽の屋敷町となり、地形と名付けられた――という内容だ。17世紀中頃に開発された新しい町で、当初は“地形”と書いたことがわかる。

 続風土記に由来まで書かれていれば、話はそこで終わったのだが、残念ながら「足軽の屋敷と成て地形と名付」と非常に素っ気なく終わっている。そこで図書館に行き、地名辞典の類いをいくつかめくってみた。正直なところ、これで簡単に解決するだろうと甘く見ていたのだが、意外なことに地行の由来について触れたものはなかった。

 『角川日本地名大辞典 40 福岡県』(角川書店、1986)には 「江戸期にはこの一帯は地形と総称される下級武士の屋敷町であったが、…」、『福岡県の地名』(平凡社、2004)には「北流する菰川の西岸に位置し、北は博多湾に臨む。地形とも書く。福岡博多近隣古図では足軽屋敷が集中する下級武士の武家町で…」などとあるだけ。『筑前国福岡区地誌』(三原恕平編、文献出版、1980、原本編纂は明治時代)に至っては「昔ハ松原ナリシヲ慶安中歩卒ノ居地トセラレ地形ト名ツク」と、続風土記そのままの内容だった。

 この段階で非常に不可解な気分になった。複数の地誌、地名辞典がそろって特定の地名の由来にノータッチということがあるだろうかと。考えられるのは、わかりきった話なので、あえて説明しなかったというケースだ。ここで「足軽の屋敷と成て地形と名付」は、無理やりではあるが「足軽の屋敷町だから地形と名付けた」と解釈できないこともないと思いつき、大工町や職人町、鍛冶町などと同様、地形も居住者の属性を表した町名ではないかと推理した。そのうえで、福岡の地名に関する複数の資料を再度当たってみたのだが、これまた大半が空振り。唯一、福岡市都市計画局が35年前に出版した『福岡・博多の町名誌』(1982)に明確な記述があった。

 「新たに土地を開いて宅地を造成することを地形という。土地の形を整えるという意味である。地行はもとは地形とよばれていたが、他にも土地が開かれて地形とよばれたことから、その混同を防ぐためいつの間にか地行と改められた」。

 足軽の町だから地形だったのではなく、新たに町を造ったから地形だったのだ。益軒の時代にはわざわざ説明するまでもない話だったのだろう。現在でも建築土木用語では、地形を「ちけい」ではなく「じぎょう」と読んだ場合は地固めや基礎工事を意味するらしく、やや通じるところはある。ただ、『福岡・博多の町名誌』には他にも地形という地名があったと書かれているが、現在の福岡市には見当たらない。また、「地形=新たな宅地開発」が江戸時代の共通語だったのならば、全国に「地形」という地名があって良さそうなものだが、ネット検索した限りでは見つからない。福岡ローカルの言葉だったのだろうか。

 この町の明治以降の移り変わりを簡単に紹介しておくと、1872年(明治5)に地行東町、地行西町に再編され、この時に地形から地行に改称した。大正時代に出版された『現在の福岡市』(上野雅生、九州集報社、1916)によると、地行西町はこの頃、福博電車(西鉄の前身の一つ)によって貸し邸宅地として開発が進められ、豪邸が建ち並んでいたという。この名残りか、地行には今も西鉄所有の物件が多い。

 この後、昭和40年代の町界町名整理で、地行東町が地行1、4丁目、地行西町が2、3丁目に再編され、現在に至っている。表通りに面した場所にはマンションが増えたが、狭い路地沿いに寺や大きな屋敷が建ち並び、藩政時代の面影を残していると思われる場所もある。比較的近年までは福岡藩の下級武士の屋敷に付き物だった「ちんちく塀」(竹の生垣)も残っていたという。
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