人民共立小学校と筑前竹槍一揆

 明治時代初めに編纂された地誌『筑前国福岡区地誌』(三原恕平編。活字版は1980年、文献出版発行)を読んでいて、“人民共立小学校”という見慣れない言葉が度々出てくるのに戸惑った。例えば、橋口町(現在の福岡市中央区天神の昭和通り付近)、大乗寺前町(現在の博多区上川端の一部)の項目には、それぞれ以下のように記載されている。
 「人民共立小学校二所(町ノ東方水鏡神社境内ニアリ)生徒男百七十五人女七十五人総計二百五十人」
 「人民共立小学校一所 町ノ西南大乗寺境内ニアリ生徒二百三十八人(男百九十四人女四十四人)」

 どこかの人民共和国にでもありそうな名称だなと思いつつ、その正体を調べてみると、1872年(明治5)の学制公布に伴い設立された小学校を当時、人民共立小学校と呼んでいたことがわかった。

 明治新政府はこの学制公布で、小学校を設立せよと全国に大号令をかけたものの、財政難から設立・運営費用は「凡学校ヲ設立シ及之ヲ保護スルノ費用ハ、中学ハ中学区ニ於テシ、小学ハ小学区ニ於テ其責ヲ受クルヲ法トス」と地元に丸投げした。このため児童の家庭から結構高額な授業料が徴収されたが、これだけでは到底賄えず、篤志家からの寄付金、さらには地域の全世帯に負担金(賦課金)まで課され、財源に充てられた。地域住民全体で学校を支えていたことになる。だから官立でも市町村立でも私立でもなく、人民共立だったのだ。

 ただし、人民共立小学校という言葉は、この記事を書くに当たって参考にした『福岡県教育百年史 第五巻 通史編(Ⅰ)』 (福岡県教育委員会、1980)、文部科学省がサイト上で公開している『学制百年史』には一切出てこなかった。公式用語ではないのだろう。

 当時の庶民にとって授業料や賦課金の負担は非常に重かったといい、国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトには「負担に耐えかねた人々の中からは学制反対一揆が起こることもありました」と書かれている。この一揆で最大のものが、学制公布翌年の1873年6月、わが福岡県で起きた「筑前竹槍一揆」だったようである。

 一揆の発端は旱魃に苦しんだ農民たちの暴動だったというが、明治新政府への大きな不満を背景に、当時の福岡県人口(※)の約4分の1に当たる10万人が加わる大騒乱となった。一揆勢の一部は福岡城跡にあった県庁に押し入り、庁舎を打ち壊し、官舎を焼いたというが、彼らが要求していたのが「御年貢三ヶ年間徳政の事」「学校、徴兵、地券、御取止めの事」など5項目。廃止を要求する項目のトップに学校が挙げられ、また、多くの小学校が焼き討ちの対象になったというから、いかに学校が憎悪の対象となっていたかがわかる。(※当時の福岡県は旧筑前藩領だけで、現在の県域には他に小倉、三潴県があった)

 これは必ずしも教育への無理解というだけでなく、新たな小学校教育の内容が当時の庶民にはわかりにくく、「実用的ではなく、かえって古くからの寺子屋の方がましだとの感をいだかせた」(『福岡県教育百年史』)ことも大きかったという。

 一揆は発生から約2週間後、最終的に軍によって鎮圧されたが、70人が死傷し、打ち壊しや焼き討ちの被害に遭った家屋は4,590棟に上ったという。首謀者とされた4人が死刑となっている。さすがに明治新政府も教育制度については矢継ぎ早に手直しを繰り返し、1890年(明治23)公布の小学校令で、小学校の設置・運営は市町村の責任であることを明確にした。人民共立小学校の歴史はここで幕を下ろしたということになるだろう。

 途中でも書いたが、人民共立小学校という言葉はオフィシャルな教育史には見当たらず、学校創立が学制公布直後に遡る福岡市立小学校の沿革を調べても、この言葉が使われている例は見つからなかった。正式用語ではなかったにしても、これは不思議だ。明治時代初めに編纂された地誌に書かれているぐらいだから、当時、一般的な呼び方であったのは間違いなく、現にインターネット検索をすると、創立当時の学校名を「〇〇人民共立小学校」と明記している例が他県では複数見つかる。草創期の初等教育で、国や地方行政がいかに役立たずだったかを証明するような言葉だから、敢えて使いたくはないのかもしれないが。

 文中に明示している資料の他に、竹槍一揆については国会図書館のデジタルコレクションに収録されている『社会変革過程の諸問題』(石浜知行、天人社、1930)、志免町ホームページなどを参考にした。
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