御鷹屋敷は如水の隠居所?

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 福岡城三の丸の御鷹屋敷跡にある「牡丹芍薬園」が散策路の補修工事などのため今月末まで閉鎖中だ。この場所には藩政初期、黒田如水(官兵衛)の隠居所があったと伝えられ、「黒田如水公 御鷹屋敷跡」と刻まれた石碑も建っている(石碑の写真は昨年5月撮影)。だから勘違いしていた。隠居所の名前が御鷹屋敷だった、と。しかし、1979年に行われた発掘調査の報告書『筑前国福岡城三ノ丸御鷹屋敷』(1980)を最近たまたま読む機会があり、両者は別物らしいことに気付いた。隠居所と御鷹屋敷では存在した時代が異なるのだ。誰が建てたか知らないが、紛らわしい石碑だ。

  屋敷跡の来歴については、昨年5月
「御鷹屋敷跡のシャクヤク」の中で簡単に紹介したが、訂正も兼ねて再度取り上げさせていただきたい。

 この場所に隠居所が完成したのは1603年(慶長8)と伝えられている。だが、如水は翌1604年3月に京都伏見の藩邸で死去しているため、仮にこの隠居所で暮らしたにしても数か月間だっただろうと報告書は指摘している。一方、「御鷹屋鋪」(※この字が使われている)の文字が初めて出てくるのは1812年(文化9)の城絵図だ。如水の死から200年以上も後の話で、隠居所が御鷹屋敷という名前だったと考えるには無理がある。

 では、御鷹屋敷とは何だったのか。絵図に名前が見えるのみで、文献資料には記録がなく、謎の存在らしい。1979年に行われた発掘調査は、牡丹芍薬園の整備に先立ち約1か月間行われたものだが、隠居所等の遺構確認とともに、御鷹屋敷の謎解明も目的の一つだったという。調査担当者は、鷹狩り用の鷹の飼育小屋などの施設があったのではないかと推測していたようだが、範囲も時間も限られた調査だったため、建物の遺構等は確認できないまま終わっている。ただ、陶器片や瓦などが大量に出土し、この分析から、隠居所、御鷹屋敷とは別の第3の施設の存在が浮かび上がってきた。

 発掘調査の報告書本編は冒頭書いたように1980年に発行されているが、普通は巻末に掲載されている図録は、なぜか10年後の1990年に別冊子として発行されている。この図録編に、高取焼(福岡藩の御用窯)研究者の興味深い論考がある。

 大雑把に要約すると、出土した陶器片の多くは17世紀後半から18世紀中期にかけての茶の湯関係のもので、中でも壊れた茶入れが14点もあったことが特筆される。茶入れは普通、水洗いするものではなく、また大事に扱われる器だから、短期間にこれだけの数が破損するのは異常。ここに茶器の製作所があり、藩主のめがねにかなったものだけを高取焼の本拠・小石原で焼成させ、さらに焼き上がった品も選別したのではないかというのが研究者の考えだ。現代風に言えば、商品開発のための研究施設みたいなものだろうか。

 こうなると、現在の牡丹芍薬園の場所に存在した施設は時代順に、如水隠居所、高取焼関連の施設、御鷹屋敷と移り変わったことになる。仮に建物は再利用されたにしても、全く別の施設と考えるのが妥当だろう。冒頭、石碑を紛らわしいと書いたが、実は市が設置した説明板にも「隠居所=御鷹屋敷」とはっきり書かれている(下写真)。あまり目くじらを立てる程の話ではないかもしれないが、市自らが市民を勘違いさせるのはいかがなものだろうかと思う。


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