基山の「いものがんぎ」

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 古代山城、基肄城があった佐賀県基山町の基山(標高405㍍)に登り、山頂の凹凸地形「いものがんぎ」付近で昼食を取ってきた。「いものがんぎ」とは妙な名前だが、イモ畑の畝に似ているからだと言われている。この辺りでは畝のことを「がんぎ」と呼ぶのだろうか。帰宅後に調べてみたところ、そもそも「いものがんぎ」について大きな勘違いをしていたことに気付いた。基山にあるから、基肄城時代の巨大土塁だと勝手に思い込んでいたが、「いものがんぎ」は中世に造られた山城の防衛施設だったのだ。

 上の写真のデコボコが「いものがんぎ」。1938年(昭和13)佐賀県発行の『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告』第六輯には「空濠の北は俗に芋の雁木と唱へるところで第一峰と第二峰の連絡上、其間の低地を埋立て其上に、蒲鉾形の三つの大突堤と四條の塹壕とが築かれてゐる」と説明されている。現在はひらがな、カタカナで表記されるのが普通だが、漢字では「芋の雁木」と書くことがわかる。この調査報告では「いものがんぎ」は基肄城の遺構の一つとして紹介されており、少なくとも戦前まではそう理解されていたと思われる。私は戦後生まれなので、勘違いしていた言い訳には全くならないが。

 地元・基山町教委発行の“現在”の資料によると、中世山城は木山城(または基山城)と呼ばれ、築城者や築城時期は不明だが、初めて記録に現れるのは南北朝時代で、九州の南朝勢力を抑えるため、室町幕府が派遣した九州探題・今川了俊がこの城に布陣したと伝えられている。その後、九州探題を継いだ渋川氏と少弐氏との争いに絡み、木山城の名がしばしば登場するという。

 城の主郭は「いものがんぎ」南側の台地(写真2枚目。ここが本当の意味での山頂で大石が祭られている)にあり、「いものがんぎ」はこの防衛のために築かれた堀切だったのだ。

 基山の山頂一帯は広大な草原となっており、狭義の意味での山頂と「いものがんぎ」は特徴的な景観を形作ってはいるが、草原の極々一部を占めるに過ぎない。山頂どころか、ほぼ全山を要塞化していた壮大な基肄城跡と比べれば、ずいぶんちっぽけな規模だ。基肄城は言うまでもなく白村江の戦いに敗れたヤマト王権が、唐・新羅の侵攻に備え、大宰府防衛のため665年、水城、大野城とともに築いた朝鮮式山城。両城の規模の差は、東アジア的なスケールで構想された基肄城と、北部九州というコップの中の争いの舞台でしかなかった木山城との違いなのだろう。

 最後に、畝を「がんぎ」と呼ぶのかという最初の疑問について。手元にある『新明解国語辞典』(三省堂)には雁木とは「空を飛ぶガンの列の片側のように斜めに、ぎざぎざがあるもの、の意」として桟橋の階段、坑内で使うはしご、雪国で積雪時でも通れるように軒から庇を長く差し出して作った回廊風の覆い、大きなのこぎり、と説明されている。ただ、色々調べてみると、農業関係で、畝に種をまく手法の一つに「雁木まき」というものがあり、この言葉が畝そのものに転用された可能性はあるとは思った。
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