「油山天福寺跡」探索行

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 福岡市の油山(597㍍)中腹にあったという天福寺跡を探して山中をさまよってきた。江戸時代の文献に初めて名前が出てきた時には、すでに滅び去った後だった幻の寺だが、西油山に寺院の遺構があるのは間違いない事実で、地元の人々からは「坊城」などと呼ばれている。地図で場所を確認し、野芥の塚穴の手前から西油山林道を通って山中に入り、石垣の写真を撮ってきたが、これが本当に天福寺の遺構なのかは正直なところ、自信がない。研究者の調査では伽藍や僧房跡とみられる平坦面や礎石が多数確認されているが、素人の節穴の眼には山は山でしかなく、結局林道を最後まで歩き通しただけに終わった。

 天福寺の名前が初めて出てくる文献とは、貝原益軒(1630~1714)が著した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』で、これには西油山天福寺と脊振山東門寺とが侍童を巡って激しく争い、焼き討ち合戦を繰り広げた末に両寺とも「悉く焦土」となったという情けないエピソードが記録されている。この争いの時期について、益軒は「昔」と記しているだけで、つまり天福寺滅亡は江戸時代にはすでに昔話だったことになる。続風土記にはこのほか、天福寺は禅寺であり、360の僧坊があったと記されているが、九州帝国大の教授だった竹岡勝也氏は、浄土宗鎮西派開祖の聖光上人が天台宗の僧侶だった時代、「油山学頭」だったという記録が残ることから、天台宗の寺だったのではないかと指摘。これが現在では定説となっているようだ。

 竹岡氏は遺構の現地調査も行い、その成果は福岡県発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第9輯(1934)に収録されているが、それには「西油山の村落を離れて南坊住の山道にかかれば、左右に屋敷跡らしい平地が段階をなして續いて居る」などと記されている。この時、石垣数か所と礎石が現存していたという。

 天福寺遺構の学術調査はこの後、約80年間も行われなかったようだが、近年になって山岳霊場の研究者が複数回の現地調査を行い、この結果、750㍍×200㍍、比高差で150㍍の範囲に遺構が広がっており、僧房跡などと考えられる平坦面が少なくとも65か所あるのを確認できたという。また、収集された遺物の中に中国からの輸入陶磁器の破片が多数含まれることから、日宋貿易(10~13世紀)を担っていた博多在住の中国商人(博多綱首)が天福寺造営に深く関わっていたのではないかと推測している。さらに、陶磁器片の年代分析から、寺の荒廃を招いた東門寺との争いは、14世紀半ばごろに起きたと考えられるという。

 続風土記には、寺同士が争い、互いに滅亡したという話がもう一つ記録されている。久原村の白山にあった白山頭光寺泉盛院という天台宗寺院の内紛で、この寺は本谷、西谷、別所、山王の4地区に分かれ、山王に50、残る3地区に各100の僧坊があったという。このうち本谷の侍童が別所の僧侶から嘲笑されたのを苦に自殺し、これをきっかけに本谷・西谷vs別所という構図で激しい戦いが起き、これまた互いに火を放った結果「悉く炎上して絶滅」したという地元民の言い伝えを益軒は書き残している。

 この白山とは福岡県久山町の首羅山(289㍍)のことで、この山からは12~15世紀の中世山岳寺院跡が見つかり、2005年から町教委などによる発掘調査が続いている。2013年には「首羅山遺跡」として国史跡にも指定されている。興味深いのは、この遺跡からも中国製の遺物が多数見つかり、博多綱首との関係が指摘されていることだ。単なる偶然かもしれないが、続風土記に記録された寺同士の血なまぐさい争いは、いずれも日宋貿易に支えられた天台密教の山岳寺院で起きたことになる。何か隠された背景でもあるのだろうか。なお、天福寺の研究者が続風土記の記述に重きを置いているのに対し、対照的に首羅山遺跡の担当者は続風土記など全く眼中にないように思え、これまたなぜなのだろうかと興味深い。

 天福寺跡探索行では明確な遺構は確認できなかったが、山中では色々なものに遭遇した。西油山林道ではアナグマらしき小動物が走り去るのを目撃した。林道終点からは梅林緑道から山頂に通じる縦走ルートに入り、帰路についたのだが、ここでは野生のツツジが赤い花を咲かせているのを目にした。林道沿いには展望が開けている場所があり、想像以上に雄大な景観が広がっているのに驚いたが、廃車や廃モーターボートまで山林に投棄されていたことにはもっと驚いた。

 文中で明示した以外の参考文献は『北部九州の山岳霊場遺跡―近年の調査事例と研究視点―』(九州山岳霊場遺跡研究会、2011)など。


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