面影を失った赤れんが塀

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 福岡市中央区の簀子小学校跡地にある赤れんが塀が改修工事で大幅に低くなり、もはや塀とは呼べない状態になっている。以前の赤れんが塀は長さ約90㍍、高さ1.3㍍で、学校跡地と隣接する簀子公園との間を区切っていた。福岡大空襲で焼け残った、市内では数少ない戦争の生き証人だったが、この一件を報じた西日本新聞記事よると、一部がたわみ、緩んでいたため、市が「地震で崩れたら危険」と一部を取り壊し、大半の部分は40㌢の高さにまで低くしたという。以前通り高さ1.3㍍のまま残されたのは東側のごく一部に過ぎない。

 福岡大空襲とは1945年6月19日深夜から翌日未明にかけ、マリアナ基地から飛来した221機のB29による無差別爆撃を指し、これにより福岡市域の3割が焼失した。死者・行方不明者数は資料によって数字がまちまちだが、『福岡市史』第3巻昭和編前編上(1965)には、死者691人、行方不明者235人と記録されている。

 中でも被害が大きかったのが博多部では奈良屋校区、福岡部では大名、簀子校区で、『火の雨が降った―6・19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、1985)によると、簀子では民家1,885戸のうち、90%に当たる1,700戸が焼失、犠牲者は死者143人、行方不明13人、負傷者242人に上った。この時、簀子小学校校舎も全焼したが、赤れんが塀だけは焼け残り、戦後1947年に簀子公園に建立された犠牲者の供養塔とともに、大空襲の記憶を伝えていた。

 同書の口絵には、終戦直後、簡易保険局の屋上から撮影した簀子地区の写真が掲載されているが、焼け野原の中に赤れんが塀がはっきり写っており、以前は簀子小の敷地全体を取り巻いていたことがわかる。つい先頃まで現存していた長さ90㍍はわずかに残った一部だったわけだが、それさえも「危険」という理由で保存を許されなかった。確かに安全は一番大事なことだが、ひと手間を掛けるのならば、取り壊しではなく補強工事で現状保存を図るという選択肢はなかったのだろうかと思う。福岡市は近代遺産に緩やかな保護の網をかけるため2012年度、登録文化財制度を創設しているが、こういった遺構を守らずして、いったい何を守るつもりなのだろうか。

 文中に紹介した供養塔は住民有志によって建立されたもので、これには簀子地区の犠牲者は176人と刻まれ、その傍らに近年、中央区役所が設置した説明板にも同じ数字が記されている。説明板には、簀子地区の被害が大きかった理由について、近くの福岡城址に歩兵第24連隊が置かれていたため「集中的に攻撃され」と書かれているが、この説明板以外では見たことがない記述だ。

 『火の雨が降った』には、米側の公文書『作戦任務報告書』の翻訳が収録されているが、これには米側が「福岡市の半月形の市街地の中心のもっとも燃えやすく産業が集中している三・六平方㍄(九・二平方㌔)で多くの重要目標が単独または重複して四,〇〇〇㌳の誤差確率園内に含まれるよう二つの攻撃中心点を設定した」とある。この攻撃中心点とは天神と中洲だったようだ。簀子への攻撃が激しかったのは歩兵24連帯が原因ではなく、天神に近接していた、あるいは天神と誤認されたためではないだろうか。


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