桜井神社と黒田忠之

IMG_6993.jpg

IMG_6990.jpg

IMG_7027.jpg

 墓参の帰り、以前から気になっていた桜井神社(福岡県糸島市)に参拝してきた。1632年(寛永9)の創建で、当時から残る重厚な楼門、本殿、拝殿などは県指定文化財ともなっている。木々に囲まれた境内は神秘的な雰囲気で、最近はパワースポットとしても人気を集めているらしい。この神社を建てたのは福岡藩2代藩主・黒田忠之(1602~1654)で、重臣と争って「黒田騒動」を引き起こし、名君不在の福岡藩歴代藩主の中でもとりわけ暗君扱いされている人物だ。一方で、寺社に対する崇敬は際立っていたとも評され、彼が創建・再興した寺社はこの桜井神社以外にも数多い。神仏頼みのバカ殿だったのだろうか。

 桜井神社創建の経緯は『筑前国続風土記』に詳しく記されているが、実は合理的な社会だったと言われる江戸時代にしては、かなり胡散くさい話だ。慶長15年(1610)、桜井地区を襲った豪雨により突然、岩戸の口が開いた。これを見物に行った地元・志摩郡の住人・浦新右衛門(新左衛門と記した資料もある)の妻(以下、浦姫)が神懸かり状態となり、人々の吉凶を占い始めた。さらに神託に従い5年間五穀を絶ったところ、浦姫の霊験はさらに高まり、遠方からも信奉者を集めるようになった。噂を聞き、自ら浦姫を訪ねた忠之は彼女の力を目の当たりにして深く信仰するようになり、ついには彼女を祭る社を建立し、社は人々から「與土姫大明神」とあがめられた。

  與土姫大明神=桜井神社という物的証拠が残っていなければ、できの悪い作り話としか思えないエピソードだが、この話の後半部分は少し様相が変わってくる。少し長くなるが、その部分を引用すると、
 「浦氏をば則社務職として、其子毎成(つねもり)をば京都に遣し、吉田流の神事を学しめ、唯一神道を守らせ、国中社職の惣司とし、諸社の神職の輩にも、志有者は浦氏に属し、仏氏の徒とならずして吉田流に帰せり。始は神社の側に、いかめしき仏閣多く、社僧も往して、仏事を取行ひけるに、此事京都の吉田より、心得ぬ執行也と沙汰有故、寛文十二年に祠官浦権太夫毎春、是を国君に申して、ことごとく仏閣をこぼちて、僧をしりぞけて、専に神道を執行せり」

 浦氏の一人を京都に派遣して吉田神道を学ばせたうえで、領内の神職のトップに据え、さらには仏教の影響下にあった神道(両部神道)を排除したという内容だ。桜井神社の草創期の歴史は一気に政治色の濃いものとなる。忠之による桜井神社創建は領内神社の一元的な統制につながる話だったわけで、『福岡県史』通史編・福岡藩文化(上)(1993)には「忠之時代の文化的な営みに特徴的なことは、忠之の寺社に対する崇敬・外護で、歴代福岡藩主中きわ立っている。それが同時にキリシタン禁教、寺社統制、及びそれをとおしての藩秩序の維持・強化を意味したことはいうまでもなく」と記されている。

 こうなると、忠之を「神仏頼みのバカ殿」と考えるのは不当な話で、ファンタジーじみた桜井神社創建の経緯にも、何らかの意図が隠されていたのではないかと思えてくる。浦姫の夫、新右衛門は、戦国大名・大友氏配下の武将の子孫。浦姫の霊験はともかくとして、その評判が藩主の耳にも届いた程だから、新右衛門、または浦氏のプロデュース能力の高さは相当なものだったと想像される。また、一族の毎成は藩命で京都に留学し、帰国後は「社職の惣司」となったのだから、忠之から実務者能力を高く買われていたのは間違いない。桜井神社創建による神社統制は、結果論ではなく、最初から練り上げられたものだったのだろうか。なお、浦姫は神社創建から4年後の寛永13年(1636)、68歳で死去している。

 暗君とばかり思っていた忠之だが、この機会にめくった『福岡県史』などには「藩主専制権力の伸長をドラスチックに強行した」人物として扱われていた。結果としてこれが初代藩主・長政以来の重臣との軋轢を生み、その一人・栗山大膳が幕府に対し「忠之に謀反の疑いがある」訴える事態となり、福岡藩は一時、存亡の危機に立たされた(黒田騒動)。無実を認められた忠之は騒動以降、大坂城再建の手伝いや長崎警備、島原の乱などで幕府への忠勤に励み、その結果、福岡藩の財政は忠之の晩年には早くも破綻状態だったという。福岡藩の2代藩主は暗君ではなかったかもしれないが、名君でもなかったのだろう。桜井神社には、忠之自身も島岡大明神として祭られている。
関連記事
スポンサーサイト
[Edit]

コメント

非公開コメント