高千穂製紙

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 現在の福岡県古賀市に1970年(昭和45)まで、高千穂製紙の本社・工場があった。跡地は現在、日吉台という住宅団地になっており、こんな場所になぜ製紙工場があったのか、今では不思議なぐらいだ。『古賀町誌』(1985)には「大根川下流の豊富な工業用水により、年商十二―十三億円の地場中堅企業であった」などと書かれているが、その大根川(写真)にしても、現在ではそれほど水量豊かな川には全く見えない。九州自動車道が通る現在はともかく、昭和時代は特に交通至便な場所だったわけでもなく、考えれば、考える程不思議な立地だが、町誌には失敗した古賀国益マオラン工場を買い取り、1937年6月24日に開設されたとあった。

 このマオランとは何か。聞いたことのない代物だったが、正体はニュージーランド原産の繊維作物で、昭和初期、福岡県を中心に、農家の副業としてマオラン栽培が爆発的ブームとなっていたことがわかった。しかし、これはひと儲けを企んだ者たちの策謀だったらしく、1934年2月10日の時事新報記事(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で閲覧)によると、国が農家に対し、マオラン繊維の商品価値は現在のところゼロに等しい、と警告する事態ともなっていた。

 古賀でもマオラン栽培が広がり、繊維工場(国益マオラン工場)が造られたが、「三、四年で失敗」(町誌)。その跡地に建てられたのが高千穂製紙というわけだが、この高千穂製紙も当初はマオランを原料にパルプ製造を目論んでいたことが、同社創業翌年の1938年に出版された『本邦パルプ会社紹介』に記録されている。

 「大川系の特殊繊維株式会社は九州地方でマオラン栽培をやっている。高千穂製紙(やはり大川系)は此の特殊繊維のマオランから人絹用パルプを製造せんとして創立されたものであるが、現下のパルプ情勢に鑑み、マオランでは早急に大量的生産が難しいので、経験のある木材パルプに転向した」

 同社も結局はマオラン利用に失敗し、木材からのパルプ製造を強いられたということになる。別資料によると、高千穂製紙がパルプの原料としていたのは、九州産のアカマツだったという。

 改めて高千穂製紙の沿革に戻ると、初代社長は大川義雄で、資本金は200万円。サルファイトパルプ洋紙等を製造していたが、赤字経営から脱却できず、1970年10月、日本パルプ工業に吸収合併され、工場は閉鎖された。工場の生産設備は日本パルプの日南工場に移されたという。工場13万平方㍍、社宅1万平方㍍の跡地利用が大きな問題となったが、冒頭記したように、現在では工場時代の面影など全くない住宅地に変貌している。

 初代社長の大川義雄は、事業家としてのほかに、競走馬の生産者兼オーナーとしても有名な存在だったようで、次男には競馬評論家として活躍した大川慶次郎(1929~99)がいる。父親は、一代で財閥を築き上げ、「日本の製紙王」とも呼ばれた大川平三郎(1860~1936)。大川義雄は1956年9月12日、56歳で死去しているが、この時の訃報によると、自宅は東京の府中市。高千穂製紙社長とは言っても恐らく古賀に住んだことはなく、ずっと東京競馬場のある府中暮らしだったのだろう。

 なぜ、唐突に高千穂製紙などという、ずいぶん昔に消え去った企業を取り上げたのかと言えば、私の親族がこの会社に勤めていたことがあり、最近になって急に思い出したのだ。勤めていたと言っても、古賀の工場勤務だったのではなく、九州山地でパルプの原料の木を伐り出す仕事をしていた。だから正社員だったのではなく、本当は下請けの従業員だったのかもしれないが、私の子供時代に高千穂製紙横を車で通った際、彼が「昔、ここに勤めていたんだ」と言った時は何となく誇らしげだった。工場はすでに廃墟じみていたが、大きな煙突のある黒ずんだ建物は強く印象に残っている。(加筆修正しました)
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