1928年、西新町駅の写真

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 日の丸を付けた蒸気機関車の出発を大勢の人々が見守っている。1928年(昭和3)10月16日、現在の福岡市早良区昭代3にあった北九州鉄道西新町駅(後の国鉄西新駅、1983年廃止)で撮影された写真だ。機関車に積まれていたのは脇山村(現・福岡市早良区脇山)で収穫された新米。昭和天皇即位の礼の大嘗祭で献上するため、特別に作られた米で、翌17日に京都駅に到着し、御所に運ばれた。

 大嘗祭で供える新米を作る田を「悠紀斎田」「主基斎田」といい、この年の2月5日、悠紀斎田を滋賀県、主基斎田を福岡県から選ぶことが発表された。続いて3月15日、福岡県内94か所の候補地の中から、脇山村が主基斎田に決まった。国会図書館のデジタルライブラリーに保存されている資料に、この日の脇山村の熱狂ぶりが記録されている。

 「三月十五日太田主は県庁から呼出しをうけて耕作の命をうけたのであるが、太田主が拝命すると新聞記者が学校に沢山やって来て大騒ぎとなった。大朝、大毎の号外が第一番に舞ひこみ、小使がそれを持って教室に駆けこみ、これを聞いた児童は思はず脇山村万歳を唱へる有様だった」(福岡県小倉師範学校『郷土教育講演集』第1輯、1933)

 ところで、なぜ西新町駅出発だったのか。写真を見てわかるように、当時は駅周辺には民家らしき木造平屋がポツンと1軒見えるだけの寒村。今でこそ周辺はマンションが建ち並ぶ住宅街(写真2枚目)だが、国鉄筑肥線の西新駅時代でさえ、西新とは名ばかりのへんぴな場所だった。こういった大きな行事の場合、普通はターミナルの博多駅から出発しそうなものだが、脇山から徒歩で新米を運んできたため、最も近い西新町駅を使ったという単純な理由だったようだ。

 西新町駅の写真は、主基斎田に選ばれたことを記念し、福岡県が発行した『大嘗祭主基斎田写真帖』(1928)から拝借したのだが、この写真の前に掲載されていたのが、供納米を運ぶために脇山村を出発する古式装束に身を包んだ青年団の写真。一行はこのまま徒歩で西新町駅に向かっていたのだ。最も近いと言っても、その距離は約14㌔。しかも青年団だけでなく、見物人たちも付き従ったらしく、行列の長さは300㍍以上にもなった。脇山村を出発したのは午前7時半だったが、西新町駅到着は約4時間後の午前11時20分だったという。

 300㍍もの大行列がやって来たのだから、駅が黒山の人だかりで埋まっているのも当然だ。駅は1937年、北九州鉄道が国有化されたのに伴い、国鉄筑肥線の西新駅となったが、これほどの群衆が押し寄せたのは、後にも先にも供納米出発の時だけだったに違いない。『福岡市勧業要覧』によると、国有化前年1936年の西新町駅の乗降客は、1日平均で69人に過ぎなかった。

 この駅について、私が記憶するのは廃止直前の頃だが、福岡市西区今宿や糸島方面から駅周辺の高校(修猷館、福岡工業、城南、西南学院、中村学園)に通ってくる高校生らが結構利用していた。福岡の県立高校では昔も今も「ゼロ限」と呼ばれる朝補習が午前7時台から行われており、彼ら筑肥線組は普段から毎日とんでもなく早起きして学校にやって来ていた。また、この頃の筑肥線は、大雨が降ると西区の長垂山付近で頻繁に土砂崩れが起き、度々止まっていた。大雨の予報が出ている場合、彼らはあらかじめ運休に備えて着替えを持って登校し、そのままクラスメイトの家に泊めてもらっていた。学校近くに住んでいた連中よりも苦労して登校していた分、彼らの方がメリハリのある高校生活を送っていた印象がある。

 話を主基斎田に戻すと、今上天皇の時も主基斎田は同じ九州の大分県玖珠町が選ばれた。その今上天皇も退位が決まり、新天皇即位の礼の大嘗祭開催は2019年11月、悠紀斎田、主基斎田は同年2~3月に選定されると報道されている。
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