続・雑餉隈は鉄道を拒否したのか

download002.jpg

 1889年(明治22)に九州鉄道の博多~千歳川間が開業した際、宿場町だった現・大野城市雑餉隈が「宿場が寂れる」として駅設置を拒否したため、離れた別の場所に雑餉隈駅(現在のJR鹿児島線南福岡駅)が建設されたという話を先日取り上げた(「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」)。似たような話が全国各地に伝わるが、裏付ける資料がなく、研究者の間では「鉄道忌避伝説」と呼ばれている。雑餉隈にもその疑いがあるのではないかと考えたのだ。引き続き関連資料を漁っていたところ、国立公文書館のデジタルアーカイブに、九州鉄道会社創立願(1887年提出)添付の路線図があるのを見つけた。少なくともこの地図を見る限り、雑餉隈を鉄道が通る計画は、そもそもなかったのではないかと思われる。

 上の地図は関係分だけをトリミングしたうえで、上が北になるように回転させたもので、赤い実線が九州鉄道の計画ルート、薄いオレンジ色の線が当時の幹線道路を示している。駅位置については赤の二重丸で記されているが、判読しづらいため赤い矢印で書き加え、さらに宿場町・雑餉隈の位置を黄色い矢印で示した。計画ルートは、雑餉隈から西に離れた場所に描かれており、開業後の鉄路も実際にその通りになった。

 地図を見てわかるのは、当たり前のことではあるが、山や丘陵地などを避けて路線が計画されていることだ。また、博多~久留米間の駅は博多、二日市、田代、久留米の4駅しか記されていないが、実際に1889年12月に開業した際は博多、二日市、原田、田代、鳥栖、千歳川(久留米の仮駅)の6駅で、さらに翌年1月に雑餉隈が加わり、7駅となった。鹿児島線と長崎線との分岐駅は現実には鳥栖だが、計画段階では田代だったことがわかる。

 「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」の中で、『大野城市史』に雑餉隈が駅設置を拒否した傍証として1889年4月13日の福岡日日新聞記事が掲載されていることを紹介したが、この記事は「九州鉄道会社の博多久留米間の線路に就き先頃紛議起こりし処ろ」などとあるだけで、具体的内容が一切記されていない代物だった。これは全くの想像だが、開業時の駅が計画段階から三つも増えたことを考えると、紛議の中身は、鉄道反対、駅反対ではなく、ひょっとしたら「わが町にも駅を造れ」や「鉄道が通らないのに、なぜ駅名を雑餉隈にする」だったのではないだろうか。

 むしろ、この地図を見て気になったのは、博多以南ではなく、博多以北の方だ。現行とは大きく異なり、山や丘の間を縫うようにして古賀の青柳から博多へ通じる路線が描かれている。地図には入れなかったが、これより北は黒崎から木屋瀬近くを通っており、旧唐津街道をなぞっているようだ。九州鉄道の赤間~博多間は1890年(明治23)に開業したが、この時の駅は赤間、福間、古賀、香椎、箱崎、博多で、オレンジ色の線で描かれた道路の方が実際に近い。なぜ、これほど大きく変更されたのだろうか。

 赤間~博多間でも、現在の福津市上西郷地区が鉄道敷設に反対したとの話が伝わり、『福間町史』明治編(1972)はこのためにルートが変更され、駅も福間になったと記している。しかし、町史が挙げた、その反対理由とは「汽車に乗った、紅お白粧をつけた嬢もンさんを、村の若い者ンが見ると、仕事に実が入らん」(ママ)などというもので、町史自ら「今から考える全く吹き出したくなる様な」と評している程だ。平成に入って刊行された新しい『福間町史』通史編(2000)は、九州鉄道の開業について事実を淡々と記しているだけで、上西郷の鉄道反対には一切触れてはいない。話としては笑えて面白いが、信憑性には欠けるのだろう。

 鉄道を巡っては、陸軍が、艦砲射撃で狙われるのを恐れて沿岸部を通るルートを嫌ったと言われる。陸軍に配慮し、内陸部を通るように計画したものの、地形条件や、旧街道沿いに当たるため用地買収の難航が予想される、などの問題があり、結局は現行路線に変更されたと想像するのだが、どんなものだろう。
関連記事
スポンサーサイト
[Edit]

コメント

非公開コメント