博多雑煮は戦後生まれ?

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 博多で戦前に行われていた祭りや行事、風習などをまとめた『博多年中行事』(佐々木慈寛編、1935)を読んでいたところ、博多雑煮について、気になる記述があった。

 博多では元日から三日間雑煮を祝ふが、餅は丸餅を用ひ、具には鯣(するめ)、椎茸、山芋、里芋、昆布、牛蒡、人参、鰹菜、鯛等を用ひ汁はすましである。或は角に切った鰤や鰹等を使ふ家もある。

 何が気になるのかと言えば、具にタイが入っているのだ。博多雑煮は、焼きあご(トビウオ)で取った出汁に、具はブリやカツオ菜を入れるのが定番とされている。ところが、『博多年中行事』では雑煮に入れる魚としてタイを真っ先に挙げ、ブリについては「鰤や鰹等を使ふ家もある」と、どう見ても少数派の扱いなのだ。(写真は福岡市のダウンロードサイト「まるごと福岡・博多」から借用)

 『博多年中行事』編者の佐々木慈寛とは、博多区千代3に現在もある松源寺の住職だった人物で、彼が実際に体験したり、見聞きしたりした出来事をまとめたのが『博多年中行事』。『新修福岡市史 民俗編一』(2012)にそっくり再録されているほか、福岡市博物館はこの資料を題材に企画展を開いたことさえあり、信頼性は極めて高いと思われる。

 『博多年中行事』には、博多雑煮のほかに、福岡市内の旧・武家で食べられていた蛤雑煮や姪浜の雑煮についても記述がある。蛤雑煮は「椀の底に大根を輪切りにしたものを敷いて丸餅と蛤二箇とを入れたものである」とあるが、少なくとも私は見たことがない。「がっしゃい言葉」と同様、福岡では滅びてしまった文化なのだろうか。一方の姪浜は「焼アゴ(飛魚)と昆布で汁を作り、中に餅、里芋、人参、椎茸、蒲鉾、塩鰤を入れて作り」と紹介されており、カツオ菜が入っていないのを除けば、こちらの方が現在の博多雑煮に極めて近い。

 戦前の博多雑煮について、他に資料はないかと当たってみたところ、1900年(明治33)元日の読売新聞に「諸国雑煮」という記事があり、この中で京都や備中、讃岐、大和とともに、筑前博多の雑煮も紹介されていた。それによると、出汁は「昆布と鰹節とを充分に煮出し適度の醤油を加えて」作る。具は「鯛の身、椎茸、牛蒡、里芋、蒲鉾及び青菜の類」。タイを入れることは『博多年中行事』の記述と一致しているが、それだけでなく、出汁は焼きあごではなく、昆布とカツオ節で取っていたという結構衝撃的な内容だ。

 ここで挙げた二つの資料に従えば、古くからの伝統と考えられてきた出汁を焼きあごで取り、ブリを入れた博多雑煮は、恐らくは戦後の産物だったことになる。しかも、明らかに姪浜雑煮の影響が色濃い。それぞれに個性を持っていた福岡市内各地の食文化が戦中・終戦直後の物不足の時代を経て、戦後に融合・均質化していく中で、新たな博多雑煮が形作られていったのだろうか。
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コメント

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戦後だったとは

明治時代は昆布にかつお節プラス鯛だったとは…衝撃的です。
かつお菜は関東ではなかなか手に入らないのですが、福岡の実家でも今年かつお菜はやめてみたと言ってました(苦味があるからとの事)。縁起の良い名前の野菜なのですけどね…。

Re: 戦後だったとは

コメントありがとうございました。
私もビックリしました。明治時代の読売新聞記事はともかく、『博多年中行事』の記述は信頼して良いかと思います。
博多雑煮の成り立ちについて、どなたか専門家の方がもっとしっかりした調査を行っていると良いのですが。