なぜ「当仁」小学校

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 福岡市中央区唐人町3に当仁(とうにん)小学校という学校がある。小学校名には普通、地名を使いそうなものだが、この当仁とは『論語』にある「當仁不譲於師」(仁に当たりては師といえども譲らず)という言葉に由来するという。しかし、なぜ、わざわざ論語の一節を学校名にする必要があったのだろうか。1982年に発行された当仁小の『創立90周年記念誌』をめくっても、それらしき理由は書かれていなかったが、他資料を当たると、明治初期、漢籍などから選んだ言葉を校名にするケースが少なくなかったとわかった。雅名と呼ばれる。当仁とは恐らく、地名を雅名に置き換えたものだろう。

 当仁小の歴史は結構複雑だ。1873年(明治6)に浪人町に校舎が仮設され、翌年に当仁小と名付けられた。浪人町とは現在の唐人町1、2丁目の境付近にあった小さな町で、現校舎の西側に当たる。だが、現在の当仁小はこの年をもって創立としているわけではなく、当仁、荒戸、西街の3小学校が合併し、新生・当仁小としてスタートを切った1892年(明治25)を創立年としている。今年で創立126年の歴史ある学校だが、浪人町に校舎が仮設された年まで遡れば、その歴史は145年を数えることになる。

 ところで、なぜ地名をストレートに付けなかったのか。浪人小学校では確かに語感が悪いが、唐人小学校ならば、別に問題はない気がする。中国人子弟の学校と勘違いする人もいないだろう。だが、命名について書かれた記録を探し当てることができなかったため、経緯はつかめなかった。校舎仮設と命名との間にタイムラグがあったことを考えると、議論はあったのだろう。なお、福岡市の小学校で、地名を別の字に換えて校名とした例は他にもある。2014年に140年の歴史を閉じた大名小は1873年、「大明」小として開校している。また、博多小の系譜に連なる上呉服小は開校当初、「五福」小を名乗っていた。これらも雅名の類いなのだろう。

 『福岡県教育百年史』第五巻(1980)には「明治七、八年ごろから、校名に漢籍などから選んだことばを引用して名付ける学校が増えてきた」とあった。この当時、現在の福岡県は福岡、小倉、三潴の3県に分かれていたが、特に三潴県では大多数の学校が雅名を名乗り、勧善、積善、修道、修身、啓蒙などの学校があったという。一方、福岡、小倉県の場合は「雅名を名付けた小学校はそう多くはなかった」そうで、当仁はその数少ない例外だったことになる。

 三潴県の雅名学校は、3県合併後に地名を使った学校名に切り替わっていったが、当仁は生き残った。恐らく、修身のようなとってつけた雅名ではなく、本来の地名を生かした名前だったからだろう。現在では、小学校名だけではなく、中学校や公民館、消防分団、あるいは飲食店の名称にも当仁が使われており、当仁は事実上、唐人町の異名ともなっている。中学校の場合は当仁(とうじん)中であるなど、地区外の人間には少々紛らわしいが。
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コメント

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りりィと当仁小学校

 今回の記事で思い出したことが一つ。
 私の好きな歌手りりィ、惜しくも2016年11月に亡くなりました。 福岡天神生まれの彼女の福岡時代の足跡がはっきりしなかったのですが、昨年7月、たまたま手に入れた中古EP「さわがしい楽園」の見本盤に彼女のプロフィールが挿まれてていました。
  それによると
『唐人(ママ)小学校4年のとき祖父と母親の3人で海の町に別れて、東京に移転。文京区指ヶ谷小学校に転入』とありました。
 彼女がまだ幼い時の記憶ですから『唐人』と『当仁』の混乱が起きたのも仕方のない事だと思いました。
当時の同級生の記憶には残っているのかなあ?

Re: りりィと当仁小学校

 コメントありがとうございました。りりィさんが福岡出身だとは知っていましたが、どこで育ったかまでは知りませんでした。Wikipediaのりりィさんの項目を見たところ、「当仁町などで育ち」と書かれており、笑いました。やはり地区外の人間には紛らわしいのでしょう。