消える久保猪之吉の旧邸跡

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 福岡市中央区の赤坂門にあった久保猪之吉の旧邸跡が取り壊されている。久保猪之吉とは、1907年(明治40)から35年(昭和10)にかけて九州帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授を務め、文化人としても著名だった人物。当時の久保邸には柳原白蓮らの文化人が集い、福岡の文化サロン的な存在だったという。この当時の住宅が残っていたわけではないが、オフィス街のど真ん中にありながら、敷地内には木々が鬱蒼と茂り、私にとっては長く“謎の存在”だった。口コミ情報だが、企業が敷地を買い取ったらしい。

 旧邸跡については、2015年1月に書いた
「福岡城下町の発掘調査」の中で取り上げたことがある。この時は個人宅だったので、住所や写真の掲載は控えたが、赤坂門にある赤レンガ塀の屋敷とは書いていたので、ピンと来る人は多かっただろうと思う。

 久保猪之吉についてはインターネット上にも数多くの情報があふれているので、詳しくは記さないが、ドイツ留学で世界最先端の医学を学んできた人物で、その名は内外にとどろき、彼の診療を受けたいと海外からも患者が訪れる程だったという。『土』の長塚節、『出家とその弟子』の倉田百三、闘病中だった作家が相次ぎ福岡に来たのも、久保を頼ってのこと。長塚は九大病院で死去している。九州大医学部には、久保の功績をたたえた久保記念館や久保通りなどがある程だ。

 ただ、久保邸サロンの主宰者は彼ではなく、より江夫人の方だったようだ。松山の生まれで、その生家に夏目漱石が下宿していた縁で、漱石はもちろん、漱石の下宿に転がり込んでいた正岡子規とも親交があり、長塚節は漱石の紹介状を持って久保を訪ねてきたという。福岡時代の夫人は高浜虚子に師事して歌人として活躍する一方、柳原白蓮とともに“福岡社交界の華”とうたわれた。1924年(大正13)7月1日の読売新聞には「久保博士夫人が久しぶりの上京」という見出しで写真付きの記事が掲載されており、上京が東京の新聞でニュースになる程の存在だったことがわかる。

 2015年記事と重複するが、久保邸のその後の来歴について記しておくと、久保が九州帝国大を定年退官し、東京に移住する際、久保の医局の後輩で、やはり文化人でもあった曽田共助(公孫樹)が屋敷を買い取り、戦後は一時、旅館となっていた。現在、自動車ディーラーがある辺りに、当時の福岡では有名だったキャバレーがあり、ここでのアトラクションに出演していたタレントの定宿として繁盛していたという。上にも書いたが、最近までは個人宅だった。“オフィス街の森”は今後どうなるのだろうか。

 【2月26日追記】木々は伐採され、ものの見事に更地になってしまいました。
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