今さら宮崎の「貞蔵道路」について

 宮崎市に「貞蔵道路」と呼ばれていた道がある。正式名称は市道大島通線。JR宮崎駅東側の宮脇町から市北部の島之内までの8㌔あまりを結んでいる。貞蔵とは、1982年から94年まで宮崎市長を務めた長友貞蔵氏のことで、大島通線は長友氏在任中の1988年12月に開通した。終点近くにあったのが長友氏の自宅。「自分の通勤専用道路を造った」と一部市民に反感を持たれたのが貞蔵道路の名の由来で、愛称と言うよりは、長友氏への非難、批判が混ざった俗称だった。開通当時、この街の納税者だった私も苦々しく思っていた一人だが、先日、ほぼ30年ぶりにこの道を通り、少し考えを改めてきた。

 30年前の開通当初、宮崎駅東側の市街地を過ぎると、沿線は田畑ばかり。私も何度か原付バイクで通ったが、利用する車は少なく、その分、たまに通る車は結構なスピードで爆走しており、怖い思いもした。渋滞の激しい国道10号線のバイパス的存在として計画された路線ではあったが、当時はJR日豊線が高架化されていなかったため接続が悪く、狙い通りの効果を上げているとは言い難かった。開通からしばらくたっても、沿線に進出してきた施設はスイミングスクールぐらいだった記憶がある。

 ところが、30年後の現在、沿線には飲食店をはじめとする郊外型店舗が立ち並び、昔ながらの田園風景を残している箇所はわずかになった。また、国道10号線のバイパス機能も十二分に果たしているらしく、かえって通行車両が増えすぎ、この道が渋滞することも日常茶飯事だという。30年もたてば、ずいぶん事情は変わるものだと思い、道の成り立ちについて改めて調べてみたところ、少し勘違いをしていたことに気付いた。長友氏の市長時代に計画され、整備された市道とばかり思っていたが、建設計画が立てられたのは1970年度、長友氏が市長に就任する10年以上も前のことだったのだ。

 貞蔵道路こと、大島通線は19年がかりで完成したことになる。ただし、工事が延々と19年も続いていたわけではなく、駅東側の一部区間が完成した後、残る区間の整備は遅々として進まず、再び動かしたのが長友氏だったようだ。従って、彼の強い意志によって完成した道路であることは間違いない。総事業費は31億円だったという。

 長友氏は94年、3期目の任期満了を前にして病に倒れ辞職、間もなく死去した。宮崎を離れていた私は知るよしもなかったが、大島通線はこの頃にはすでに国道10号線のバイパス機能を果たしており、この道の完成は長友氏の大きな功績の一つに数えられていたという。ただし、長友氏の死後になってもなお、市議会の会議録には「亡くなられた長友貞蔵さんには申しわけありませんが、貞蔵道路いうてどこやろうかいと、私すぐわかります。ところが、大島通線いうと、どこじゃろうな」といった発言が記録されている。長友氏と反目していた旧社会党市議の発言ではあるが、「市長が巨費をかけて自分のために造った道路」という疑いもまた、根強く残っていたのだろう。

 貞蔵道路という名に対し、現在の宮崎市民はどのような認識を持っているのだろうか。試しに親族の若者たちに尋ねてみたところ、残念ながら、誰一人として貞蔵道路の名も長友氏も知らなかった。大島通線開通から30年、長友氏の死去からもすでに24年。若者たちにとっては大昔の話で、そんな時代に出来た道路の異名に今なおこだわる自分が滑稽に思えた。
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