県庁は春日原になる可能性があった

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 もう7年も前になるが、福岡県庁舎は上空から見ると「亀井光」と読めるという噂話を紹介したことがある(「『亀井光』伝説」)。亀井光知事の下、福岡県庁舎が博多区東公園に新築移転したのは1981年のことで、それ以前は天神のど真ん中にあった。跡地は現在、アクロス福岡と天神中央公園になっている。東公園移転は唐突に決まった記憶があったので、ざっと経緯を調べてみた。全く覚えていなかったが、移転構想が動き出した当初、本命と目されていた候補地は、現在の春日・大野城市にまたがる春日原米軍宿舎跡地(計156㌶)だった。

 県庁舎移転、または新築構想が本格的に動き出したのは、亀井知事が3選を果たした直後の1975年5月頃だったとされる(『福岡市史』昭和編続編一)。1915年(大正4)完成の庁舎は老朽化が進み、手狭にもなっており、庁舎問題は県政の長年の懸案ともなっていた。県側は現在地を含めた7箇所の候補地を議会に提示したが、この時すでに亀井知事の腹は春日原移転で固まっていたと思われる。6月8日には西日本新聞が「新県庁舎 春日原跡地に」とスクープ。直後の県議会で、この記事について野党議員から問われた知事は「全くの観測記事だ」と否定しながらも、春日原が「一番有力な候補地であることは事実である」と明言していたほどだ(『福岡県議会史』第九巻)。

 福岡市の官民が求めていたのは、現在地・天神での改築だったが、亀井知事は<1>旧庁舎の解体から新庁舎完成までの間、仮庁舎が必要になる<2>一等地にある跡地を売却して庁舎新築費用の一部に充てたい――などの理由から否定的だった。さらに春日市には陸自第4師団に貸している約16㌶の県有地があり、これと等価交換すれば、春日原の用地取得は容易というのが知事の考えだったようだ。

 県庁所在地でなくなることを嫌った福岡市の巻き返しは激しく、切羽詰まった進藤一馬市長が史跡の福岡城址でもある舞鶴公園を候補地として提案、これに文化庁が猛反発するという騒動も起きている。この年の10月、県庁新築場所について知事から諮問を受けていた議会の小委員会は、候補地を<1>現在地<2>途中から候補地に加わった東公園<3>春日市の春日原米軍宿舎跡地<4>大野城市の同跡地――の4箇所に絞り、この中から選ぶよう知事に答申した。

 春日原跡地、中でもその大半を占める春日市側で腹を固めていたはずの知事だが、結論を出すまでには予想外の時間がかかった。福岡市の巻き返し工作が依然激しかったことに加え、1976年8月に福岡市長選が行われたこと、さらに県庁舎移転のためには、地方自治法の規定により出席議員の3分の2以上の賛成で条例制定が必要なため、議員の反応を見極めていたことなどが理由と思われる。知事が決断したのは、答申から2年後の1977年。結論は春日原ではなく、東公園だった。

 なぜ、逆転したのか。『福岡市史』は、春日原では北九州、京築、筑豊地区からのアクセスが不便になることや、福岡市に集中する国の出先機関との連絡等に時間と経費を要し、極めて非効率になることなどがマイナスとなり、東公園有利に働いたと指摘している。一方、敗れた側の『春日市史』の分析はもっと端的だ。県議会小委員会が知事に4箇所の候補地を答申した際、「県民、特に福岡市当局、議会を含む福岡市民の意向を尊重することの付帯意見をつけ、知事を拘束した」。恐らく双方の記述とも正しいのだろうが、『春日市史』の方が、より的を射ている気がする。

 独裁者並みのワンマンとばかり思っていた亀井知事だが、県庁移転問題に限ってみると、意外にも福岡市の官民や県議会を慮り、自身の意向を貫けなかったことになる。冒頭に挙げた「県庁舎は上から見ると亀井光」が万が一、真実だったとしたら、本人にとっては「せめてもの代償」だったのだろうか。

 写真は上から、天神中央公園のモニュメントに掲示されている旧県庁舎の写真、現在の県庁、アクロス福岡。蛇足だが、下の写真は、天神中央公園の「福岡藩刑場跡」石碑の横に、いつの間にか設置されていた説明パネル。江戸時代、高僧・空誉上人が福岡藩によって処刑されたと伝えられる場所だが、以前は雑然とした中に碑があるだけで、意味不明の代物だったため、過去にこのブログでも取り上げたことがある(
「大塚惟精と福岡藩刑場跡碑」)。

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