続・樋井川河口にあったものは

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 先日書いた「樋井川河口にあったものは」には複数のコメントをいただき、貴重な情報も寄せていただいた。こんな個人ブログの記事に興味を持ってもらえたのかと思うと、非常な励みになった。仕切り直しで、再度古い住宅地図や資料などを当たっていたところ、福岡市総合図書館でたまたま手に取った古い新聞記事の切り抜きに、樋井川河口にあった謎の一角の正体が書かれていた。ツイッターやブログのコメントで複数の方から指摘があった通り、漁船の船溜まりだった。博多湾がまだ好漁場であった頃の名残りだったのだ。

 新聞の切り抜きとは、今はなき地元紙フクニチ新聞(1992年廃刊)の連載記事『町名物語ルーツわが町』地行1~4丁目編。1984年(昭和59)8月20日掲載記事に「樋井川河口に近い場所に以前船溜りがあった。この地区には古くから漁業を営む住民がいたので漁船の停泊のために建設されたものである」とあり、カット写真として掲載されていた往時の船溜まりには数隻の漁船が写っていた。ただ、漁船とは言ってもボートにしか見えない小さな船で、漁の場所は恐らく博多湾内に限られていたことだろう。

 記事にはまた、「船溜りは潮が引くと子供たちの遊び場にもなったし、川口から迷い込んできた魚が逃げ場を失っているのを付近の主婦たちがバケツを持って取りに集まる」というエピソードも紹介されていた。「樋井川河口にあったものは」で書いたが、河口東岸の地行側は明治末から昭和初期にかけて福博電車によって埋め立てられ、海水浴場や納涼場が設けられた。これは私の想像だが、海岸が海水浴場となったために漁船の置き場所がなくなり、代わりに船溜まりが整備されたのではないだろうか。

 記事の筆者はフクニチ新聞の元編集局長で、退職後は郷土史家として活躍されていた柳猛直氏(1917~97)。『町名物語ルーツわが町』は1,000回を超える大連載だった。

 蛇足だが、1938年(昭和13)版の『福岡市縦横詳細地図』という住宅地図で、樋井川河口付近のページをめくったところ、この地図には、船溜まりとは明記されてはいなかったものの、長方形の一角はきちんと描かれていた。興味深かったのは、西岸の西新側の住宅3棟に、ラルトステュルプナー、エーウリル、ポークランの名が記されていたことだ。言うまでもなく、この3棟こそが
旧制福高の外国人教師宿舎で、跡地には九州大の研究・交流施設「九州大西新プラザ」が整備され、その一角に宿舎3号棟(下の写真)が保存されている。『九州大学西新外国人教師宿舎第3号棟修理工事報告書』(2003)によると、先のカタカナ名はクルト・ステュルプナー、ロイド・エリック・キンヴァストン・エーヴリル、アルベール・ヴォークランの3教師で、ステュルプナー氏が昭和13年当時、今なお残る3号棟の主だったようだ。

 古い空撮写真や地図で樋井川河口に妙な長方形の一角を見つけ、複数の方から「船溜まりではないか」と指摘を受けた。自分自身も最初はそう思いながらも、船溜まりにしては小さすぎるなどの理由から、正体探りを始め、結果としてやはり船溜まりだったということで落着した。大山鳴動して何とかをやらかした気もするが、34年前の連載記事のお陰でスッキリすることができた。一番上の写真は、旧樋井川河口付近の現在の姿。


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コメント

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祝・解決

これほど早く解決された事に感服するばかりです。
米軍撮影の航空写真から、80年も昔の事実が読み取れるのがまた楽しいですね。

Re: 祝・解決

ありがとうございます。
ただ、運良くドンぴしゃの新聞記事を見つけることができただけで、あまり褒められた話ではないと思います。
本文にも書きましたが、やらかしてしまったという思いの方が強いです。