米一丸伝説のモデルは…

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 学生時代、下宿近くの福岡市東区箱崎に米一丸というバス停があり、妙な名前だなと思っていた。当時は全く関心がなかったが、バス停近くには一帯の旧地名の元となった「米一丸の供養塔」があり、地蔵堂も建っている。供養塔の傍らには12基の梵字板碑や鳥居さえある。神仏習合を通り越してしまったような場所だが、不思議なことに雑多な雰囲気は感じられない。地蔵堂内も敷地も非常にきれいな状態で、地元の人に大事にされていることが一目見てわかる。

 供養塔は九重の石塔で、高さは4.2㍍。鎌倉時代末期の作とされ、県文化財にも指定されている。米一丸の供養塔と呼ばれるのは、
濡衣塚と同じく、石塔が悲劇的な伝説で彩られているためで、伝説の主人公が福岡に来たばかりに悲惨な最期を迎えた、というところも濡衣塚と共通している。地元にとってはあまり喜ばしくない話を語り伝え、それにまつわる石塔や石碑も守り続けている。福岡人のよくわからないところだ。

 この伝説を詳しく紹介している『伝説の九州』(竹田秋楼、1913)によると、米一丸は、駿河の木島長者こと、三河朝臣元直の長男。跡取り息子を待ち望んでいた元直が米山薬師に祈って一子を得たため、米一丸と名付けたという。米一丸は美しい若者に成長し、八千代姫という絶世の美女を妻に迎えるが、主君に当たる京都の一条殿にあいさつに出向いたところ、この男が八千代姫に横恋慕。姫を奪うために口実を作って米一丸を博多に送り、ここで地元の武士たちに襲撃させ自刃に追い込んだ。米一丸の後を追ってきた八千代姫も彼の死を知り自害した、というのがあらすじだ。

 現地説明板には、米一丸の悲劇は文治年間(1185~89)の出来事だと記されており、鎌倉幕府成立直後頃の物語だということになる。『伝説の九州』には後日談も記されているが、米一丸の死後、博多には疫病が流行し、米一丸のたたりと恐れた地元民は、博多中を探して彼の遺品を集め、盛大に供養したという。

 藩政時代の儒学者、貝原益軒も著書『筑前国続風土記』の中で米一丸伝説を取り上げているが、「乱雑にしてまことしからぬ事多ければ、信じがたしといへども、今の市井の人の口碑に残り、瞽女数段のうたひ物とし…」と評している。どこが「乱雑にしてまことしからぬ」のか、益軒は具体的には記していないが、郷土史家の中にも「新しい時代の名前や古い時代の名前が交錯して出てくる」などと指摘する人がおり、時代考証を無視したような部分が多々あるのかもしれない。現在残る石塔は、前述のように鎌倉時代末期の作。南北朝時代に建立されたのに、600年も時代を遡って奈良時代の話に結びつけられた濡衣塚とは違い、伝説と石塔との関係はまだしも時代的には整合してはいるが。

 この伝説は完全な作り話だろうとは思うが、仮に史実がベースになっていた場合、モデルは誰だろうかと考えてみた。以下は私の完全なる想像だが、着目したのは米一丸ではなく、悪役の一条殿だ。モデルにふさわしい人物を捜してみたところ、意外にぴったりな武将が見つかった。毛利輝元。関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった長州藩の藩祖だ。彼は30歳代の頃、家臣の妻を略奪したうえ、家臣を殺害したとの話が伝わる。ただ、この場合、物語の成立は恐らくは江戸時代初め頃、供養塔と結び付いたのはさらにそれ以降ということになる。1709年完成の『続風土記』に「今の市井の人の口碑に残り」と書かれていることを考えると、少し無理があるかもしれない。
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