終戦直後まであった「田島の女中市」

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 写真は、現在の山口県下関市で昭和時代まで続いていた「滝部の奉公市」を記録したものだ。滝部地区周辺の漁村では、女性たちが農繁期、近隣の農家に働きに出る慣行があり、こういった青空労働市場で雇用関係を結んでいた。賃金は、現金ではなく米などで支払われていたらしい。漁業者側はこれで米を確保できる一方、農家側も忙しい農繁期にだけ人を雇えるメリットがあったという。同様の風習は、玄海灘に浮かぶ福岡県の大島(現・宗像市)にもあり、こちらは「田島の女中市」とも呼ばれていた。ただし、地元では人身売買を連想させるとして女中市の呼び名を嫌っていたようだ。

 田島の女中市については、戦前の1935年(昭和10)に出版された『博多年中行事』(佐々木慈寛)に、以下のように紹介されている。

 女中市 宗像宮の秋祭の時、同社の一の鳥居一帯に妙齢の娘たちが居並んでいるが、これは宗像郡神湊から三里の沖にある大島(宗像宮の中宮を祀る)の娘たちで、島の習慣として一度島外へ奉公した者でないと嫁に貰う者がないので、この日宗像宮に詣でて召し抱え主を物色しているのである。祭典の二日目に参籠殿の一隅で雇傭関係が結ばれるが、毎年四、五十組位はあるという。

 宗像宮の秋祭とは、現在も続く宗像大社(宗像市田島)の秋季大祭(10月1~3日)のことで、別名は「田島の放生会」。『博多年中行事』の出版当時、当たり前に市が開かれていたことがわかる記述だが、それどころか戦後の1951年(昭和26)まで、この風習は続いていたらしい。理解できないのは、女性たちが奉公に出る理由について「島の習慣として一度島外へ奉公した者でないと嫁に貰う者がないので」と書かれていることで、本当にこんな理由で女中市は長年続いていたのだろうかと不思議に思った。

 他資料を当たったところ、『大島村史』(1985)に「普通は盛漁期を過ぎた十月から、あり余った漁村の労働力を、農繁期の刈り入れ時に提供し、漁村に不足している米という現品を持ち帰る。経済的に相互利益に立った両者納得のうえの契約である」とあった。やはり滝部の奉公市と同様の図式だったようだ。ただ、一方で村史には「この出稼ぎは島の貧富を問はず、習慣として、どんな豊かな家の娘も、一度は他人の飯を食って修業したのである」ともあり、一種の通過儀礼として機能していたのも事実のようだ。なお、奉公の期間は12月1日までというのが一般的で、雇用期間が1年を超える年季奉公に対し、「半期奉公」と呼ばれていたという。

 女中市は、上述のように1951年を最後に幕を閉じるが、これはニーズがなくなったから廃れたわけではなく、福岡県側があらかじめ求人情報を調べ、これを大島村の若者たちに提示する方式に改めたからだという。半期奉公について、地元・大島村では島の若者たちに他所の生活を体験させ、人間形成につなげる「美風」として続いていたが、女中市とも呼ばれた、その雇用契約のあり方については、県側には改めるべき前近代的な風習と思えたのだろう。

(写真は国会図書館デジタルコレクション所蔵の『職業紹介公報』第54号から借用。女中は現在、差別用語として扱われているが、歴史的用語として使用した) 
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