鶴城高女、福岡城多聞櫓についての追記

 福岡市内に戦中まで存在したものの、戦後になって忽然と消え去った鶴城高等女学校について、2年前の11月に取り上げたことがある(「鶴城高女を探して」「続・鶴城高女を探して」)。福岡市と周辺にあった高等女学校は戦後、鶴城高女以外は全て新制高校として再出発し、今なお健在だ。鶴城高女がいつ、なぜ閉校したかを探ることが2本のブログのテーマだったが、あやふやなままで終わった。その後も折を見て古い新聞記事等を当たっていたところ、同校について簡単に触れたフクニチ新聞(1992年廃刊)記事を探し当てることができた。同紙は戦後の一時期、鶴城高女の跡地に社屋を置いていたというつながりがある。その記事によると、鶴城高女は「終戦の頃に廃校になった」という。

 廃校の理由については書かれていなかったが、これは何となく想像がつく。「鶴城高女を探して」の中でも紹介したが、同校は1945年6月19日の福岡大空襲で、校舎を失っている。福岡県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)によると、福岡大空襲では、鶴城高女のほか、福岡女子専門学校(現・福岡女子大)、福岡第一師範女子部(現・福岡教育大)、福岡高女(現・福岡中央高)などの校舎が焼失したが、私学の鶴城高女には戦後、校舎を再建し、再出発するだけの体力が残されていなかったのだろう。

 鶴城高女の創立年については、2016年のブログで、『教育百年史』には1902年(明治35)、大正時代に出版された『福岡市』(1916)には1912年(明治45)と異なる記述があることを取り上げたが、フクニチ記事はまたも異なり、1911年(明治44)創立と書かれていた。廃校によって記録が散逸し、さらには同校について記憶する人も減っていく中で、創立年という基礎的なデータさえあいまいになってしまったのだろう。『教育百年史』というオフィシャルな出版物が正しいのではないかと最初は考えたが、創立から近い時代に出版された『福岡市』の1912年が、やはり一番信頼に足りるのではないかと思う。
 
 最後に、鶴城の読みについて。「ツルシロ」か「カクジョウ」かわからなかったため、2016年ブログでは触れなかったが、カクジョウが正解だった。

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 福岡城内に築城当時から残る多聞櫓(写真)が戦後の一時期、西日本短大の前身に当たる学校に学生寮として使用されていたことを昨年8月、「多聞櫓は学生寮だった」で紹介した。城の建物が学生寮となるなど珍しいと思ったが、いかにも戦後の混乱期らしい話でもあったようだ。

 西日本短大の前身に当たる学校とは、困窮していた戦災者、引き揚げ者らの子弟の教育のため1948年12月に創設された大憲塾。創立者は江口繁。中央大卒業後に福岡市で弁護士を開業、後に政界に転じ、福岡市議、県議、衆院議員を歴任した人物だ。戦後は一時、公職追放を受けていた。多聞櫓の使用については、教育立て直しのため国も快く許可したのだろうと思っていたが、当時、一部から疑問の声が上がっていたという。正当な手続きを踏んでの借用だったのか、疑いがあったのだろう。

 疑義に対して江口は「大憲塾があったから、多聞櫓は浮浪者の住まいになることなく、損壊も免れたのだ」などと抗弁していたという。櫓使用についての正当性を主張したわけではなく、やや的外れの反論を行ったところをみると、疑いは根も葉もないものではなかったのだろう。ただ、大憲塾は1955年3月には県から各種学校の認可を受け、大憲塾法学院に改称しており、遅くともこの時までには問題は完全に解決していたと思われる。

 なお、『福岡城南丸多聞櫓修理工事報告書』(福岡市教委、1975)に基づき、多聞櫓は学生寮として使用されたと書いてきたが、同じ市教委発行の資料の中には、ただ単に校舎と記したものもある。ただ、同報告書には「西日本短大が事務所および学生寮として使用した際、(中略)室内に押入れの新設、窓や出入口の模様替並に天井、間仕切壁面にベニヤ板を張る等内装を改め」とあり、居室として使用されていたのは間違いないようだ。寄宿舎を兼ねた校舎だったのだろうか。
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