戦時下のミッションスクール撲滅運動

 戦時下の福岡県で、不愉快極まりない運動が行われていたことが、県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)に記されている。戦前、戦中の「キリスト教系学校への弾圧」について紹介した一文で、「キリスト教国である米英等と深い関係があり、平和と人類愛を目標とするキリスト教系の学校に対しては特に非難、圧迫が次第に強く加えられるようになった。(中略)ある種の学校については、事実上学校経営が不可能になるような条件の実行を強要し、あるいは廃校に追いこもうとさえした」などと書かれている。この一文はごく簡潔にまとめられ、どの学校にどのような弾圧が加えられたのか、具体的事実は全く記されていないのだが、当時の新聞の切り抜きがカット写真として掲載され、その写真説明が本文よりはるかに生々しく弾圧の実態を物語っている。「戦時中、西南女学院撲滅運動に関する新聞記事」。

 撲滅とは手元にある国語辞典によると「うち滅ぼすこと、絶やすこと」で、普通は社会の害悪に対して使われる。そんな激しい言葉が、一女子校に向けられていたのだ。

 西南女学院は北九州市小倉北区にあるミッションスクールで、1922年(大正11)、伝道のため来日していたアメリカ南部バプテスト派の宣教師によって創設された。同僚宣教師によって設立されたのが福岡市の西南学院で、両学院は経営的には無関係だが、西南女学院の第7代院長だったW.M.ギャロット(1910~74)が、後に西南学院の理事長を務めるなど人的なつながりは深い。新聞切り抜きの写真は、見出しは読み取れるものの、記事本文は全く判読できず、撲滅運動の正体まではわからない。そこで『西南女学院七十年史』(1994)をめくったところ、まるまる一章を割いて戦時下の苦難がつづられていた。

 『七十年史』にはさすがに「撲滅運動」ではなく、排撃運動、排斥運動と記されていたが、いずれにしろ西南女学院がターゲットとされたのは、キリスト教系の学校だったからというだけではない。同学院の立地も問題にされていた。「下関・北九州は人々の交流、物資輸送の要地であり、大陸進出の拠点であり、製鉄業を中心とした四大工業地帯の一つであったから、国家防衛上の要塞地になっていた。それを眼下に見るシオンの山にアメリカの教会と関係の深い西南女学院が建っていることから、特に攻撃や排斥を受けやすい状態であった」(『七十年史』)のだ。

 「シオンの山」とは、学院がある小倉・到津の丘陵を生徒・教職員はこう呼んでいた。軍事上の要地、下関要塞地帯を見下ろす場所に、キリスト教系の学校があるのはけしからんというのが攻撃の大きな理由だったのだ。

 運動を主導したのは「愛国同志会」なる右翼団体。同団体は太平洋戦争開戦直前の1940年8月、同学院に押し掛けると、<1>学校を平坦地に移せ<2>人的にも物的にも米国との関係を絶て<3>キリスト教を捨てよ――などと要求し、これを拒否されると、立て看板やポスターを小倉市(当時)の各所に掲示するとともに、複数回の演説会開催、さらには宣伝ビラを新聞折込で市内各戸に配布するなどして市民に対して西南女学院排斥を訴えたという。この愛国同志会の実態はつかめなかったが、これほど大々的な運動を展開できたのだから、資金面でのバックがあったのは間違いない。運動には一部市議も賛同、警察は黙認の状態で、さらには新聞一紙が同志会の動きを大々的に報じたが、論調は「むしろ攻撃する側を正当化する」(『七十年史』)ものだったという。

 女学院側が校舎移転は毅然として拒否しながらも、度重なる交渉の末、外国人理事の除名や米国からの資金援助拒否などを約束したことで、同志会は矛を収めるが、女学院の本当の苦難の始まりはこれからだった。1944年3月、当時の原松太院長、杉本勝次理事長(後の福岡県知事、衆院議員)は軍部、及び県から呼び出され、陸軍の防空基地とするため校舎を明け渡すよう要請を受けた。さらに「貴校に対しては地方的にも排撃があるようだから施設の譲渡と同時に一時閉鎖か、廃校にしては何か」と迫られたのだ。院長、理事長の二人はこの時、「学校を閉鎖するより他に道はないように考えた」という。

 長くなったので結論を急ぐが、この危機的な状況の中で西南女学院が存続できたのは、女学院の教育を守ろうとした学校関係者や父母の熱意はもちろんだが、軍部や県に疎まれた学院に対し、救いの手が差し伸べられたからだ。旧制小倉中、小倉高等女学校が学校施設、そして明恩寺(小倉北区、浄土真宗本願寺派の寺院)が本堂を提供してくれたことで、校舎を失った女学院は分散授業を強いられながらも、廃校を免れることができた。女学院が帰還を果たせたのは、終戦後の1945年9月。このブログを始めて以来、参考資料として学校史を読むことが増えたが、ここまでドラマチックな記述は初めてだった。

 福岡市の西南学院に対する攻撃は、女学院に比べれば穏やかだったらしい。その理由として、女学院への攻撃の裏には男女差別があった可能性があること、西南学院の校地は軍事施設から離れていたこと、そして何よりも「自分たちは健児を送り出して戦時体制に直接的に協力していると主張できたことが大きい」と学院関係者は分析している。
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