山辺道と草野の町

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 農産物の直売所巡りで、福岡県久留米市と大分県日田市を結ぶ道をよく通っている。以前は国道210号線ばかりを使っていたが、最近は景観に魅かれ、耳納連山の北麓を走る県道151号線を通ることが多くなった。藩政時代には旧街道の脇道だった路線で、通称は「山辺道」。奈良県にある同名の古道は「やまのべのみち」だが、こちらは「やまべのみち」と読む。耳納山麓に多数の古墳が連なる景観を奈良になぞらえ、考古学者の森貞次郎氏は「筑後山辺道」と呼んだという(『装飾古墳紀行』玉利勲、1984)。

 現在は沿線に民家などが立ち並び、山辺道よりもさらに耳納連山側を走る
「山苞(やまづと)の道」の方が古代の面影を残していると思うが、この辺りの生業の庭木や果樹が彩る山辺道の沿線風景は独特だ。また、旧宿場町の町並みが残る草野(久留米市)の存在も、この道を個性的なものにしている。

 草野は、中世から戦国時代末期にかけて一帯を治めた豪族・草野氏の拠点だったところで、久留米市立草野歴史資料館の公表資料には、草野について「中世には城下町として、江戸時代には宿場駅として栄えた」と記されている。中世、この地に「城下町」と呼ぶものがあったとは今一つ信じがたいが、公立資料館が断言しているのだから、宿場町のベースとなるような集積はあったのだろう。

 『福岡の町並み』(アクロス福岡文化誌編纂委員会、2011)には、旧日田街道が成立した藩政時代初期、草野は「宿駅として町建てされ、在郷町として発展してきた」とあった。現在の町の景観は、明治期に大地主らによって大型の質の高い町家が多く建てられたことによって形成されたと記されていた。在郷町とは、商工業が集積した農村地帯の町を指すという。

 草野の町並みを特徴づけているのは、宿場町特有の直角に折れ曲がった街路や草野歴史資料館(写真)をはじめとする黄緑や水色に塗られた洋風建築だ。資料館は1911年(明治44)、旧・草野銀行本店として建築され、戦後も福銀草野支店などとして使われた後、1984年2月に資料館に衣替えした。木造一部二階建てで、建物本体のほか、門も国の登録文化財となっている。この建物に関する資料を探していたところ、県教委が先頃発行した『福岡県の近代和風建築』に取り上げられていたので、一瞬不思議に思ったのだが、外観は洋風ながら内部は和風に仕立てた和洋折衷の建物だという。「明治期の木造の地方銀行の主屋の在り方を示す好例である」とも記されていた。

 久留米市はこの建物を資料館として保存したのに続き、86年12月には「伝統的な町並み保存条例」を制定している。当時、草野には大正期に建てられた洋風建築の廃業医院2棟が残り、先行きが心配されていたというが、条例制定が追い風となり、1棟は文化施設「山辺道文化館」として、もう1棟は民間によって現在も保存活用されている(写真2枚目)。そもそも条例の制定自体が、草野の町並みを守るためだったようだ。こういった「古き良きもの」を積極的に守ろうとする行政の姿勢は、非常に羨ましい。
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