由布岳で見た倒木

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 大分県由布市と別府市の境にある由布岳(1,584㍍)に登り、登山口近くの樹林帯で印象的な光景に出会った。かなり以前に鉄砲水でもあったのだろう。谷筋に大量の木が倒れていたのだが、見たところほぼすべてがスギだったのだ。谷沿いには広葉樹も生えていたのだが、こちらは根がむき出し状態になりながらも持ちこたえており、対照的な姿だった。

 今回の九州北部豪雨災害では流木が被害を拡大したと指摘され、この流木は、根の張り方が浅いスギが山の表層ごと崩れ落ちて発生したという。由布岳の倒木を見てもスギの弱さは良くわかり、今回のような災害を防ぐには、河川改修を急ぐよりもむしろ、治山が大事なことは素人目にも理解できた。もちろん、簡単なことではないのだろうが。

 写真を撮ってくれば良かったのだが、正面だけを見据えて山を登っていた往路は気付かず、復路は岩だらけの登山道に疲れ果て、リュックからカメラやスマホを出す気力もなかった。由布岳で他に見かけたものは、タヌキ、樹林を駆け抜けていったシカ、ジョギング姿で山を駆け下りてきた男性。最後が一番驚いた。
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今年の飾り山は

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 博多祇園山笠は15日未明、「追い山」でフィナーレを飾る。このブログでは毎年、ヤフオクドーム前の飾り山を紹介してきたのだが、今年は完璧に失念していたので、今さらだが写真を掲載させていただきたい。表はホークス選手が主役の「若鷹快進撃」。例年、モデルの選手が誰かは明示されているのだが、私みたいに「似てない」と難癖を付ける人間が多いのに人形師がうんざりしたのか、今年は「打の若鷹」「投の若鷹」とモデル不明になった。一応、打者は左、投手は右のようである。

 見送りは「雄姿凛々剣洗川(ゆうしりんりんけんをあらうかわ) 」。南北朝時代の1359年、懐良親王、菊池武光が率いる南朝方4万、少弐頼尚らの北朝方6万が九州の覇権を懸けて筑後川の戦い(大保原の戦い)で激突。勝利した菊池武光が刀を川で洗ったところ、流れが真っ赤に染まったという故事にちなむ。九州最大の合戦と言われる筑後川の戦い、及びこの戦いで武名を轟かせた菊池武光は山笠の題材としても人気で、ヤフオクドーム前飾り山の見送りは3年前も同じテーマが選ばれていた。
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桜井神社と黒田忠之

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 墓参の帰り、以前から気になっていた桜井神社(福岡県糸島市)に参拝してきた。1632年(寛永9)の創建で、当時から残る重厚な楼門、本殿、拝殿などは県指定文化財ともなっている。木々に囲まれた境内は神秘的な雰囲気で、最近はパワースポットとしても人気を集めているらしい。この神社を建てたのは福岡藩2代藩主・黒田忠之(1602~1654)で、重臣と争って「黒田騒動」を引き起こし、名君不在の福岡藩歴代藩主の中でもとりわけ暗君扱いされている人物だ。一方で、寺社に対する崇敬は際立っていたとも評され、彼が創建・再興した寺社はこの桜井神社以外にも数多い。神仏頼みのバカ殿だったのだろうか。

 桜井神社創建の経緯は『筑前国続風土記』に詳しく記されているが、実は合理的な社会だったと言われる江戸時代にしては、かなり胡散くさい話だ。慶長15年(1610)、桜井地区を襲った豪雨により突然、岩戸の口が開いた。これを見物に行った地元・志摩郡の住人・浦新右衛門(新左衛門と記した資料もある)の妻(以下、浦姫)が神懸かり状態となり、人々の吉凶を占い始めた。さらに神託に従い5年間五穀を絶ったところ、浦姫の霊験はさらに高まり、遠方からも信奉者を集めるようになった。噂を聞き、自ら浦姫を訪ねた忠之は彼女の力を目の当たりにして深く信仰するようになり、ついには彼女を祭る社を建立し、社は人々から「與土姫大明神」とあがめられた。

  與土姫大明神=桜井神社という物的証拠が残っていなければ、できの悪い作り話としか思えないエピソードだが、この話の後半部分は少し様相が変わってくる。少し長くなるが、その部分を引用すると、
 「浦氏をば則社務職として、其子毎成(つねもり)をば京都に遣し、吉田流の神事を学しめ、唯一神道を守らせ、国中社職の惣司とし、諸社の神職の輩にも、志有者は浦氏に属し、仏氏の徒とならずして吉田流に帰せり。始は神社の側に、いかめしき仏閣多く、社僧も往して、仏事を取行ひけるに、此事京都の吉田より、心得ぬ執行也と沙汰有故、寛文十二年に祠官浦権太夫毎春、是を国君に申して、ことごとく仏閣をこぼちて、僧をしりぞけて、専に神道を執行せり」

 浦氏の一人を京都に派遣して吉田神道を学ばせたうえで、領内の神職のトップに据え、さらには仏教の影響下にあった神道(両部神道)を排除したという内容だ。桜井神社の草創期の歴史は一気に政治色の濃いものとなる。忠之による桜井神社創建は領内神社の一元的な統制につながる話だったわけで、『福岡県史』通史編・福岡藩文化(上)(1993)には「忠之時代の文化的な営みに特徴的なことは、忠之の寺社に対する崇敬・外護で、歴代福岡藩主中きわ立っている。それが同時にキリシタン禁教、寺社統制、及びそれをとおしての藩秩序の維持・強化を意味したことはいうまでもなく」と記されている。

 こうなると、忠之を「神仏頼みのバカ殿」と考えるのは不当な話で、ファンタジーじみた桜井神社創建の経緯にも、何らかの意図が隠されていたのではないかと思えてくる。浦姫の夫、新右衛門は、戦国大名・大友氏配下の武将の子孫。浦姫の霊験はともかくとして、その評判が藩主の耳にも届いた程だから、新右衛門、または浦氏のプロデュース能力の高さは相当なものだったと想像される。また、一族の毎成は藩命で京都に留学し、帰国後は「社職の惣司」となったのだから、忠之から実務者能力を高く買われていたのは間違いない。桜井神社創建による神社統制は、結果論ではなく、最初から練り上げられたものだったのだろうか。なお、浦姫は神社創建から4年後の寛永13年(1636)、68歳で死去している。

 暗君とばかり思っていた忠之だが、この機会にめくった『福岡県史』などには「藩主専制権力の伸長をドラスチックに強行した」人物として扱われていた。結果としてこれが初代藩主・長政以来の重臣との軋轢を生み、その一人・栗山大膳が幕府に対し「忠之に謀反の疑いがある」訴える事態となり、福岡藩は一時、存亡の危機に立たされた(黒田騒動)。無実を認められた忠之は騒動以降、大坂城再建の手伝いや長崎警備、島原の乱などで幕府への忠勤に励み、その結果、福岡藩の財政は忠之の晩年には早くも破綻状態だったという。福岡藩の2代藩主は暗君ではなかったかもしれないが、名君でもなかったのだろう。桜井神社には、忠之自身も島岡大明神として祭られている。
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遅れる旧高宮貝島邸整備

旧貝島邸

 福岡市南区高宮に残る炭鉱王一族の邸宅跡「旧高宮貝島邸」の整備計画がようやく固まったらしく、各紙地域版で相次ぎ紹介されていた。それによると、福岡市は民間企業の力を借り、旧貝島邸をレストラン等を備えた迎賓館的施設に改装し、4年後の2021年度オープンを予定しているという。

 これには驚いた。福岡市がこれまでに明らかにしてきた想定スケジュールでは、2016年度中には整備・運営を担当する企業を選んだうえで設計まで完了、17年度から工事に取り掛かり、18~19年度には開園予定となっていたからだ。つまり全体スケジュールは2~3年遅れるということになる。今年2月、事業が予定通り進んでいないのではないかと疑い、
「旧高宮貝島邸の現状」の中で、「炭鉱王一族の豪邸を目に出来る機会が、また遠のかなければ良いのだが」と書いたのだが、悪い予感は当たっていたようだ。

 旧高宮貝島邸について改めて紹介すると、貝島炭砿の創業者・貝島太助を支えた弟・嘉蔵の屋敷跡で、1915年(大正4)に直方市に建てられ、27年(昭和2)に現在地に移築されてきた。1.9㌶の広大な敷地の中には母屋、茶室、衣装蔵の3棟約670平方㍍が現存し、このうち母屋と茶室は今月、「市内有数の大規模な近代和風建築であり、石炭業全盛時の歴史を伝える貴重な建造物」として市の登録文化財にもなっている。

 670平方㍍の屋敷とは驚くべき広大さだが、これでも2001~02年に一部建物が解体され、移築時の半分以下になっているという。「炭鉱王の大邸宅」の代名詞ともなっている飯塚の伊藤伝右衛門邸が1,020平方㍍というから、これをも上回る規模だったことになる。敷地は約23億円で市が購入、建物は貝島家から寄贈を受け、市は一般開放するため、2015年度から整備案の検討を始めていた。この時には「2017年度開園」という報道もあった。

 なぜ、これほど遅れたのか。どの新聞にも「21年度オープン」とさらっと書かれているだけで、遅延の理由についての説明はないが、要するに想定スケジュールが甘かったということなのだろう。旧貝島邸クラスの整備・運営を任せられる民間企業となると、地場では数が限られる。例えば、有力候補として思い浮かぶのは、高島市長と“蜜月”の関係とも噂される某私鉄あたりだ。何の根拠もないが、スケジュール等について企業サイドから否定的な声でも上がったのだろうか。根拠のない話を書くなと言われそうだが、私のような部外者はともかくとして、旧貝島邸のオープンを心待ちにしている地元関係者も少なくないのだから、市はもう少しきめ細かに情報発信して欲しいところだ。

 旧貝島邸の整備・運営を民間に委ねることについては、市議会内には「歴史的建築物を後世に伝えていけるのか」と否定的な声もある。確かに、伊藤伝右衛門邸は建物や庭園を含めた屋敷全体が資料館となっているだけで、レストランなどは併設されていなかった。伝右衛門邸と同じく、来館者には近隣で食事をしてもらった方が地域経済にとってはベターではないかと思うが、福岡市はとしてはもっと観光色の強い施設整備を望んでいるのだろう。写真は旧貝島邸の現況で、市の発表資料から拝借した。
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面影を失った赤れんが塀

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 福岡市中央区の簀子小学校跡地にある赤れんが塀が改修工事で大幅に低くなり、もはや塀とは呼べない状態になっている。以前の赤れんが塀は長さ約90㍍、高さ1.3㍍で、学校跡地と隣接する簀子公園との間を区切っていた。福岡大空襲で焼け残った、市内では数少ない戦争の生き証人だったが、この一件を報じた西日本新聞記事よると、一部がたわみ、緩んでいたため、市が「地震で崩れたら危険」と一部を取り壊し、大半の部分は40㌢の高さにまで低くしたという。以前通り高さ1.3㍍のまま残されたのは東側のごく一部に過ぎない。

 福岡大空襲とは1945年6月19日深夜から翌日未明にかけ、マリアナ基地から飛来した221機のB29による無差別爆撃を指し、これにより福岡市域の3割が焼失した。死者・行方不明者数は資料によって数字がまちまちだが、『福岡市史』第3巻昭和編前編上(1965)には、死者691人、行方不明者235人と記録されている。

 中でも被害が大きかったのが博多部では奈良屋校区、福岡部では大名、簀子校区で、『火の雨が降った―6・19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、1985)によると、簀子では民家1,885戸のうち、90%に当たる1,700戸が焼失、犠牲者は死者143人、行方不明13人、負傷者242人に上った。この時、簀子小学校校舎も全焼したが、赤れんが塀だけは焼け残り、戦後1947年に簀子公園に建立された犠牲者の供養塔とともに、大空襲の記憶を伝えていた。

 同書の口絵には、終戦直後、簡易保険局の屋上から撮影した簀子地区の写真が掲載されているが、焼け野原の中に赤れんが塀がはっきり写っており、以前は簀子小の敷地全体を取り巻いていたことがわかる。つい先頃まで現存していた長さ90㍍はわずかに残った一部だったわけだが、それさえも「危険」という理由で保存を許されなかった。確かに安全は一番大事なことだが、ひと手間を掛けるのならば、取り壊しではなく補強工事で現状保存を図るという選択肢はなかったのだろうかと思う。福岡市は近代遺産に緩やかな保護の網をかけるため2012年度、登録文化財制度を創設しているが、こういった遺構を守らずして、いったい何を守るつもりなのだろうか。

 文中に紹介した供養塔は住民有志によって建立されたもので、これには簀子地区の犠牲者は176人と刻まれ、その傍らに近年、中央区役所が設置した説明板にも同じ数字が記されている。説明板には、簀子地区の被害が大きかった理由について、近くの福岡城址に歩兵第24連隊が置かれていたため「集中的に攻撃され」と書かれているが、この説明板以外では見たことがない記述だ。

 『火の雨が降った』には、米側の公文書『作戦任務報告書』の翻訳が収録されているが、これには米側が「福岡市の半月形の市街地の中心のもっとも燃えやすく産業が集中している三・六平方㍄(九・二平方㌔)で多くの重要目標が単独または重複して四,〇〇〇㌳の誤差確率園内に含まれるよう二つの攻撃中心点を設定した」とある。この攻撃中心点とは天神と中洲だったようだ。簀子への攻撃が激しかったのは歩兵24連帯が原因ではなく、天神に近接していた、あるいは天神と誤認されたためではないだろうか。


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