帰って来た「青陵の泉」像

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 福岡市中央区の九州大六本松キャンパス跡地に、JR九州が建設していた複合ビルが完成し、26日に商業エリアが開業する。跡地再開発は着々と完成に近付いているが、気掛かりだったのは、九大教養部の前身、旧制福岡高校を記念して建立された「青陵の泉」像だ。キャンパス解体に際して一時的に撤去されていたが、現地で確認したところ、歴史あるブロンズ像は再び六本松に戻され、像の脇には由来を紹介する説明板も設置されていた。

 像が戻された場所は、敷地の北東隅に当たる六本松大通りの交差点に面した場所。キャンパス時代とほぼ同じ場所だ。ただ、以前は池の中に配された大きな自然石の上に据えられていたが、新たな台座は高さ1㍍程の御影石で、ずいぶん低くなった印象を受けた。また、池がなくなり、「青陵の泉」というタイトルではそぐわなくなったためか、説明板では「青陵乱舞の像」として紹介されていた。

 この像は、旧制福岡高校の同窓会「青陵会」により、1968年に除幕されたもので、手ぬぐいを手に応援歌を歌いながら乱舞する3人の旧制福高生がモデルだ。説明板には「旧制福岡高等学校の卒業せる人材、五千余名、生徒は弊衣破帽を専らとし、堂々博多の大道を闊歩、或いは校庭に高唱乱舞し」と記されているが、まさにその「弊衣破帽」「高唱乱舞」の姿を表現している。作者は、福岡美術界の重鎮だった安永良徳(1902~70)で、恐らく遺作に当たる。

 なお、JR九州建設の複合ビルは地上6階、地下1階建てで、商業エリアには蔦屋書店やスーパーのボンラパスなどが入居している。3~6階には福岡市科学館が入り、こちらは10月1日オープンの予定。名誉館長には、九大出身の宇宙飛行士、若田光一さんが就任する。

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 六本松キャンパス時代の「青陵の泉」像。キャンパス閉鎖後の2010年4月に撮影した。
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続・雑餉隈は鉄道を拒否したのか

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 1889年(明治22)に九州鉄道の博多~千歳川間が開業した際、宿場町だった現・大野城市雑餉隈が「宿場が寂れる」として駅設置を拒否したため、離れた別の場所に雑餉隈駅(現在のJR鹿児島線南福岡駅)が建設されたという話を先日取り上げた(「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」)。似たような話が全国各地に伝わるが、裏付ける資料がなく、研究者の間では「鉄道忌避伝説」と呼ばれている。雑餉隈にもその疑いがあるのではないかと考えたのだ。引き続き関連資料を漁っていたところ、国立公文書館のデジタルアーカイブに、九州鉄道会社創立願(1887年提出)添付の路線図があるのを見つけた。少なくともこの地図を見る限り、雑餉隈を鉄道が通る計画は、そもそもなかったのではないかと思われる。

 上の地図は関係分だけをトリミングしたうえで、上が北になるように回転させたもので、赤い実線が九州鉄道の計画ルート、薄いオレンジ色の線が当時の幹線道路を示している。駅位置については赤の二重丸で記されているが、判読しづらいため赤い矢印で書き加え、さらに宿場町・雑餉隈の位置を黄色い矢印で示した。計画ルートは、雑餉隈から西に離れた場所に描かれており、開業後の鉄路も実際にその通りになった。

 地図を見てわかるのは、当たり前のことではあるが、山や丘陵地などを避けて路線が計画されていることだ。また、博多~久留米間の駅は博多、二日市、田代、久留米の4駅しか記されていないが、実際に1889年12月に開業した際は博多、二日市、原田、田代、鳥栖、千歳川(久留米の仮駅)の6駅で、さらに翌年1月に雑餉隈が加わり、7駅となった。鹿児島線と長崎線との分岐駅は現実には鳥栖だが、計画段階では田代だったことがわかる。

 「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」の中で、『大野城市史』に雑餉隈が駅設置を拒否した傍証として1889年4月13日の福岡日日新聞記事が掲載されていることを紹介したが、この記事は「九州鉄道会社の博多久留米間の線路に就き先頃紛議起こりし処ろ」などとあるだけで、具体的内容が一切記されていない代物だった。これは全くの想像だが、開業時の駅が計画段階から三つも増えたことを考えると、紛議の中身は、鉄道反対、駅反対ではなく、ひょっとしたら「わが町にも駅を造れ」や「鉄道が通らないのに、なぜ駅名を雑餉隈にする」だったのではないだろうか。

 むしろ、この地図を見て気になったのは、博多以南ではなく、博多以北の方だ。現行とは大きく異なり、山や丘の間を縫うようにして古賀の青柳から博多へ通じる路線が描かれている。地図には入れなかったが、これより北は黒崎から木屋瀬近くを通っており、旧唐津街道をなぞっているようだ。九州鉄道の赤間~博多間は1890年(明治23)に開業したが、この時の駅は赤間、福間、古賀、香椎、箱崎、博多で、オレンジ色の線で描かれた道路の方が実際に近い。なぜ、これほど大きく変更されたのだろうか。

 赤間~博多間でも、現在の福津市上西郷地区が鉄道敷設に反対したとの話が伝わり、『福間町史』明治編(1972)はこのためにルートが変更され、駅も福間になったと記している。しかし、町史が挙げた、その反対理由とは「汽車に乗った、紅お白粧をつけた嬢もンさんを、村の若い者ンが見ると、仕事に実が入らん」(ママ)などというもので、町史自ら「今から考える全く吹き出したくなる様な」と評している程だ。平成に入って刊行された新しい『福間町史』通史編(2000)は、九州鉄道の開業について事実を淡々と記しているだけで、上西郷の鉄道反対には一切触れてはいない。話としては笑えて面白いが、信憑性には欠けるのだろう。

 鉄道を巡っては、陸軍が、艦砲射撃で狙われるのを恐れて沿岸部を通るルートを嫌ったと言われる。陸軍に配慮し、内陸部を通るように計画したものの、地形条件や、旧街道沿いに当たるため用地買収の難航が予想される、などの問題があり、結局は現行路線に変更されたと想像するのだが、どんなものだろう。
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百道海岸に昔、陸軍射撃場があった

1939福岡市全図

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 1939年(昭和14)発行の福岡市全図を眺めていて、百道海岸に「射撃場」があるのに気付いた。地図の左端、現在は市立百道中学校がある辺りだ(2枚目の写真の画面左側)。福岡城址に本拠を置いていた陸軍歩兵第24連隊の施設で、正式名称は「西新町射撃場」だったことはすぐに判明したが、大正時代初めには鴻巣山(現在の福岡市中央区・南区)に移設されていたとみられ、1939年当時は使われてはいなかったと思われる。当時も今も修猷館、西南学院など学校が並ぶ一帯。移設は当然過ぎる話だが、移設を巡る事情を調べたところ、西新町は陸軍側から巨額の費用負担を求められ、苦慮していたことがわかった。これを救ったのは、少し毛色の変わった陸軍の主計将校だ。

 射撃場移設を巡る軍と地元とのやり取りは、「西新町射撃場交換の件」と題した1911年(明治44)の陸軍省資料に記録されている(国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブで公開されている)。この中の西新町長・神崎潜一郎の陳情書には「旧藩時代ヨリノ射的場ニテ甚シク迷惑ヲ感セサリモ」とあり、射撃場を設置したのは、24連隊ではなく福岡藩だったことがわかる。資料中にある地図によると、明治末期の射撃場の規模は、1939年の地図に描かれていた時よりもはるかに大きく、東側は現在の西新小学校付近までを占めていた。(面積は9㌶余りで、移設後の跡地の一部に西新小が新築移転している)

 藩政時代に開かれた西新の町だが、明治に入ると、道路整備や路面電車の開通などで人口が急増。射撃場の存在は住民の安全を脅かし、現実に流れ弾が児童の下駄を直撃するという事故も起きていた。この状況下で陸軍側も移設やむなしと決断、西新町に射撃場を明け渡す代わりに、町側は陸軍指定の鴻巣山の用地を購入した上で、新射撃場の建設費も負担するという条件でいったんは合意した。

 西新町の負担額は計4万8000円。当時の貨幣価値について「明治の1円=現在の2万円」という情報がインターネット上にあり、これに従えば、9億6000万円もの巨費を要求されたことになる。西新町が福岡市に編入されるのは1922年(大正11)のことで、射撃場移設問題が持ち上がっていた明治末はまだ、単独の自治体。町側は当初、基本財産の7,000円に加え、原野の売却、起債、さらには町民に負担金を課してまで賄う方針だったが、小さな町が何とかできる金額ではないとわかり、陸軍側に再検討を求めた。上記の陳情書がそれで、日付は1912年(明治45)2月29日となっている。

 陸軍側で移設交渉を担当していたのは、24連隊が所属していた第12師団(小倉)の経理部長、浜名寛祐。「西新町射撃場交換の件」を読む限りでは、彼は西新町の事情をよく理解し、極力、町側の要望通りになるように陸軍省上層部に掛け合っていたようにみえる。例えば、神崎町長の陳情書を受け、同年3月12日に陸軍大臣・石本新六に提出した上申書では「適当ノ場所ニ射撃場ヲ新設スルニ其費用ヲ国庫ヨリ別途支弁セラレ而シテ現在射撃場ハ他日ヲ待チテ売却シ国庫ノ収入トナス方収支ノ点ニ於イテ得策ナルベシト信ズ」という提言さえしている。西新町側にとっては“満額回答”で、この場合、町側の負担はゼロになる。

 射撃場移設問題は、福岡市への編入前の話であるためか、『福岡市史』の明治編、大正編などには記録されておらず、正直なところ、詳しい経過はよくわからなかった。だが、アジア歴史資料センターが公開している西新町射撃場に関する、もう一つの資料「不用地処分の件」を見ると、浜名の提言通りに進んだのではないかと想像される。1921年(大正10)のこの文書には、旧・西新町射撃場敷地を売却して国庫の足しとするため陸軍省から内務省に還付すると記されている。少なくとも、この頃には移設が完了していたことがわかる。また、西新町が費用を負担したのならば、射撃場跡地は陸軍ではなく町の管理になっているはずなので、移設自体が国費で行われたのだろう。

 ところで、浜名を毛色の変わった主計将校と書いたのは、陸軍の人間にしては物わかりが良かったということではなく、歴史研究者としての顔を持っていたからだ。国立国会図書館のデジタルライブラリーには彼の著作3点が収録されており、言語学の分野からのアプローチを得意としていたようである。そのうちの『日韓正宗溯源』(1926)には「卑弥呼は筑紫に在らず馬韓に在り」などということが書かれていた。
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1928年、西新町駅の写真

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 日の丸を付けた蒸気機関車の出発を大勢の人々が見守っている。1928年(昭和3)10月16日、現在の福岡市早良区昭代3にあった北九州鉄道西新町駅(後の国鉄西新駅、1983年廃止)で撮影された写真だ。機関車に積まれていたのは脇山村(現・福岡市早良区脇山)で収穫された新米。昭和天皇即位の礼の大嘗祭で献上するため、特別に作られた米で、翌17日に京都駅に到着し、御所に運ばれた。

 大嘗祭で供える新米を作る田を「悠紀斎田」「主基斎田」といい、この年の2月5日、悠紀斎田を滋賀県、主基斎田を福岡県から選ぶことが発表された。続いて3月15日、福岡県内94か所の候補地の中から、脇山村が主基斎田に決まった。国会図書館のデジタルライブラリーに保存されている資料に、この日の脇山村の熱狂ぶりが記録されている。

 「三月十五日太田主は県庁から呼出しをうけて耕作の命をうけたのであるが、太田主が拝命すると新聞記者が学校に沢山やって来て大騒ぎとなった。大朝、大毎の号外が第一番に舞ひこみ、小使がそれを持って教室に駆けこみ、これを聞いた児童は思はず脇山村万歳を唱へる有様だった」(福岡県小倉師範学校『郷土教育講演集』第1輯、1933)

 ところで、なぜ西新町駅出発だったのか。写真を見てわかるように、当時は駅周辺には民家らしき木造平屋がポツンと1軒見えるだけの寒村。今でこそ周辺はマンションが建ち並ぶ住宅街(写真2枚目)だが、国鉄筑肥線の西新駅時代でさえ、西新とは名ばかりのへんぴな場所だった。こういった大きな行事の場合、普通はターミナルの博多駅から出発しそうなものだが、脇山から徒歩で新米を運んできたため、最も近い西新町駅を使ったという単純な理由だったようだ。

 西新町駅の写真は、主基斎田に選ばれたことを記念し、福岡県が発行した『大嘗祭主基斎田写真帖』(1928)から拝借したのだが、この写真の前に掲載されていたのが、供納米を運ぶために脇山村を出発する古式装束に身を包んだ青年団の写真。一行はこのまま徒歩で西新町駅に向かっていたのだ。最も近いと言っても、その距離は約14㌔。しかも青年団だけでなく、見物人たちも付き従ったらしく、行列の長さは300㍍以上にもなった。脇山村を出発したのは午前7時半だったが、西新町駅到着は約4時間後の午前11時20分だったという。

 300㍍もの大行列がやって来たのだから、駅が黒山の人だかりで埋まっているのも当然だ。駅は1937年、北九州鉄道が国有化されたのに伴い、国鉄筑肥線の西新駅となったが、これほどの群衆が押し寄せたのは、後にも先にも供納米出発の時だけだったに違いない。『福岡市勧業要覧』によると、国有化前年1936年の西新町駅の乗降客は、1日平均で69人に過ぎなかった。

 この駅について、私が記憶するのは廃止直前の頃だが、福岡市西区今宿や糸島方面から駅周辺の高校(修猷館、福岡工業、城南、西南学院、中村学園)に通ってくる高校生らが結構利用していた。福岡の県立高校では昔も今も「ゼロ限」と呼ばれる朝補習が午前7時台から行われており、彼ら筑肥線組は普段から毎日とんでもなく早起きして学校にやって来ていた。また、この頃の筑肥線は、大雨が降ると西区の長垂山付近で頻繁に土砂崩れが起き、度々止まっていた。大雨の予報が出ている場合、彼らはあらかじめ運休に備えて着替えを持って登校し、そのままクラスメイトの家に泊めてもらっていた。学校近くに住んでいた連中よりも苦労して登校していた分、彼らの方がメリハリのある高校生活を送っていた印象がある。

 話を主基斎田に戻すと、今上天皇の時も主基斎田は同じ九州の大分県玖珠町が選ばれた。その今上天皇も退位が決まり、新天皇即位の礼の大嘗祭開催は2019年11月、悠紀斎田、主基斎田は同年2~3月に選定されると報道されている。
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眺めが残念過ぎる西公園

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 福岡市中央区の西公園をよく散策している。ジョギングや散策の場としては、近くにある大濠公園の方がはるかに人気があるが、西公園の適度な起伏を私は気に入っている。ただ、海沿いの高台にある割には、この公園からの眺めは期待外れだと思う。「展望台広場」と銘打ちながら、実際には木々に視界を遮られ、展望ゼロの場所さえある。県営公園でありながら、詐欺まがいなことをやっている。今さら木を伐るわけにはいかないだろうから、展望台広場の名前の方を下ろすべきだろう。

 西公園は「日本さくら名所100選」に選ばれ、花見のシーズンには大にぎわいするが、普段は日曜祝日でも静かな場所だ。大濠公園には大挙押し寄せてくる隣国からの観光客も、ここでは滅多に見掛けることはない。しかし、戦前には福岡市第一の観光名所だったようで、戦前のガイド本などには真っ先にこの公園の記載がある程だ。 今も昔も福岡に観光地が少ないことを証明するエピソードではあるが、例えば、1936年(昭和11)の博多築港大博覧会開催の際に出版された『躍進の大福岡』には、以下のように西公園が紹介されている。

 ◇西公園 福岡に足を留むるものは必ず此処に遊ぶ。「神さふる荒津の先によする波まなくや妹に恋わたるらむ」と詠まれた荒津山、県営にして日本的名公園である。四時の眺めは佳絶。(中略)玉垣の広場から福博全市を眺望し得る。広莫たる築港博の会場、及旧時代の福岡港を眼下に見る。(中略)奥の広場に達して眺望を恣にすれば、天空快闊、漂渺たる玄界灘の彼方沖合には外国通いの汽船が薄墨の煙を曳き、近くの博多湾口には残、志賀の二つの島を望む。(中略)春は満山の桜花真に妍を競ひて老若男女群を作し、絃歌昼夜の別なく酒宴大いに盛んにして、雑踏極まりなし、福博名物の一として既に他県に知られて居る。

 花見シーズンの酒盛りが盛んなのは現在でも同様だが、かつて西公園が誇った眺望の方は、前述の「展望台広場」以外も悲惨な状況だ。現在の西公園で最も眺めが良いのは「中央展望広場」だと思うが、残念ながらここも生い茂った松の枝が視界を遮り、しかも眼下に見えるのは石油貯蔵基地のタンク群。観光客がやって来るとしたら、眺望などではなく、この公園名物のホットドッグが目当てだろう。せめて松の枝を伐採し、博多湾内がもう少し見渡せるようにしてはどうだろうか。

 園内には近年まで5店の茶店があったというが、現在、常時営業しているのは2店舗しかない。こんなところにも西公園の観光不振が表れている。
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