旧聞since2009

弁当代わりに遠足に持って行ったハンバーガー

 数年前、40数年ぶりに福岡市博多区竹下の街を歩いた際、ここに暮らしていた時代に時折通っていたパン屋を探してみたことがある。街並みは全体としては意外なほど変わっていなかったのだが、残念ながらパン屋があった付近は様変わりし、懐かしの店に再会とはいかなかった。店名までは覚えていなかったので、この時に古い住宅地図をめくって確かめたのだが、地域名をストレートに冠した「竹下パン」だった。この街には現在も似た名...

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子供の頃、チクロを飲んでいた

 ちょうど半世紀前のことだ。1969年、チクロという人工甘味料に発癌性があると疑われ、使用禁止を巡って大騒動になった。当時の私は小学校低学年で、本来だったらこういった社会問題を覚えているはずもないのだが、チクロは事情が違った。砂糖の安い代用品として駄菓子や粉末ジュースなどに使われていたため、チクロ追放は、私たち貧しい子供たちを直撃したのだ。 何よりこの騒動が始まって以降、不愉快な目にしばしば遭うように...

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子供時代の自分を褒めてあげたい

 正月休み、宮崎県内の道の駅を巡った帰りに、とある農村部の道を通った。この道沿いにはかつて、家族の祖父の家があり、家族は宮崎市に住んでいた子供時代、夏休みには両親に連れられ姉妹3人で遊びに行き、祖父宅で過ごすのを楽しみにしていた。ただ、移動は大変だったという。当時はマイカーがなかったため、最寄の駅で列車を降りた後は祖父宅まで歩いて行っていたが、これがずいぶん遠かった上に、道もでこぼこ。長い長い時間...

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芦屋町の海岸で撮影された『トラ・トラ・トラ!』

 調べ物でめくっていた『芦屋町誌』の年表に、目を引く記述があった。1969年の出来事に<映画「トラ・トラ・トラ」ロケ芦屋浜で>とあったのだ。町誌にはこれ以外に詳しいことは書かれていなかったが、真珠湾攻撃を題材にした1970年公開の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の撮影が同町で行われたということだろう。調べてみると、単なるロケではなく、同町の遠賀川河口に、連合艦隊の旗艦だった戦艦「長門」、空母「赤城」の実物大...

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わがままになって福岡から帰ったパンダ

 上野動物園で誕生したパンダの赤ちゃん、シャンシャン(香香)が大人気だが、福岡市動物園にも以前、中国から貸し出されたパンダの中にシャンシャンがいた。もっとも、こちらはオスで、漢字では珊珊と書いた。福岡に来た時はすでに25歳で、相方だったメスのパオリン(宝玲)も17歳と、結構な高齢カップルだった。パンダ来日はちょうど私が学生時代のことで、せっかくパンダが福岡に来たのだからと、同級生と男ばかり十数人で見に...

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電気柵の恐怖

 先日、大野城市の「御笠の森」に行ったついでに、同市の仲畑地区を歩いてきた。私がこの街に住んでいた1970年代は、仲島、畑詰という二つの地区に分かれ、まだ農村の面影を色濃く残していた。田畑だけでなく、電気柵で囲われた牛の放牧地さえあり、バカな小学生だった私は不用意に電気柵に触れ、吹っ飛んだこともある。 放牧地があったのは、友人宅から別の友人宅に通じる細い道(通学路でもある)沿いで、確か数頭の牛が放し飼...

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高千穂製紙

 現在の福岡県古賀市に1970年(昭和45)まで、高千穂製紙の本社・工場があった。跡地は現在、日吉台という住宅団地になっており、こんな場所になぜ製紙工場があったのか、今では不思議なぐらいだ。『古賀町誌』(1985)には「大根川下流の豊富な工業用水により、年商十二―十三億円の地場中堅企業であった」などと書かれているが、その大根川(写真)にしても、現在ではそれほど水量豊かな川には全く見えない。九州自動車道が通る...

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昭和の成人式

 タイミングを逸してしまったが、成人式の思い出話を。現在、福岡市では「成人の日」の式典は1会場(今年は博多区のマリンメッセ)だけで行われているが、私の時代は区単位で開催されていた。各区でどんな催しが行われるかを報じた当時の新聞記事を見つけたので、以下に紹介した。役所お仕着せではなく、新成人をまじえた実行委員会でプランを練ったらしいが、その割には(あるいはそのためか)どこも講演とコンサートばかりで、...

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ここはバス通りだった

 福岡市早良区西新に城南線から明治通りに抜ける一方通行の路地がある。城西1丁目の交差点と西新2丁目の交差点とを結ぶ通りで、道沿いにはラーメン屋などの飲食店が並んでいる。一方通行であるぐらいだから、かなり狭い道なのだが、先日ふと思い出した。「昔、ここはバス通りだった」と。 「昔」というのは正確には、まだ西鉄の路面電車が城南線や明治通りを走っていた頃で、城南線というのは本来、路面電車の路線名だった。明治...

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教室ストーブの思い出

 最高気温が13日には20度を超えていた福岡市だが、寒の戻りで15日には一気に5度前後まで下がり、凍える一日となった。福岡市は現在、全市立小中学校へのエアコン設置を段階的に進めているところだが、これほど寒くても暖房使用は認めていないという。あくまでも夏場の熱中症対策のため設置したエアコンであり、少々寒いのは我慢しろということらしい。せっかく教室にエアコンがあるのだから、校長らの判断で臨機応変に使えば良い...

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食堂城内、ロバのパン、わらび餅…

 先日書いた「動き出した潮見櫓復元」に、「保険局が懐かしい」とコメントをいただいた。私もこの記事の写真撮影で城内住宅一帯を歩いた際、「食堂城内」を見掛け、懐かしい気分になった。高校生時代、時折利用していた食堂で、すでに移転、または閉店したのか営業はしていない様子だったが、外観は昔のままだった。 自宅も高校もこの近くにあったわけではないが、食堂近くの平和台陸上競技場に大会や練習でよく行っており、弁当...

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子供の頃に通った二日市温泉

 先日、山歩きの帰りに筑紫野市の二日市温泉に立ち寄り、「博多湯」という源泉掛け流しの温泉で汗を流してきた。小学校低学年だった昭和40年代、近隣の風呂なしアパートに住み、この辺りの銭湯にも通っていた記憶がある。まさか同じ風呂屋ではないだろうと思ったが、帰宅後に調べてみると、「博多湯」は万延元年(1860年)の創業。昭和どころか江戸時代末期から続く老舗で、子供時代の私が浸かっていたのも、やはりこの湯だったよ...

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遠足はいつも油山だった

 福岡市の城南、早良、南区にまたがる油山に行き、「市民の森」を散策してきた。標高597㍍。いわゆる低山で、しかも中腹近くにある「市民の森」までは車で登ることができる。お手軽な山だと思われがちだが、麓から登山道を通って山頂を目指せば、意外にしんどい。小学生時代、遠足でこの山によく登ったものだが、当時から標準体重オーバーの私にとっては難行苦行で、遠足の日が近付いてくると憂鬱で仕方がなかった。 私が通った...

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スケートが得意だった福岡人

 平成の初めごろまで、福岡市と周辺にはかなりの数のアイススケート場が点在していた。現在も存続しているオールシーズンのリンクは福岡市博多区のパピオアイスアリーナぐらいだが、以前はほかに東区の香椎スポーツガーデンや城南区の七隈ファミリープラザがあった。また、冬季限定で営業していたスケート場も天神の福岡スポーツセンターや津屋崎町(現・福津市)の恋の浦、犬鳴峠を越えて若宮町(現・宮若市)まで足を延ばせば、...

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謎の言葉「モンチ」

 昭和40年代、私が小学校に上がった頃の話だ。九州山地に囲まれた田舎町から福岡都市圏に出てきたのだが、一番戸惑ったのは言葉だった。私も方言を話していたのだから偉そうなことは言えないが、博多弁(あるいは福岡弁)には意味不明の言葉が少なくない。同世代の子供たちが何を言っているのか、さっぱり理解できないことも多かった。 特にわからなかったのが「モンチ」と「ココトットート」だ。2番目は鶏の鳴き真似ではない。...

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「よど号」事件のバカな思い出

 45年前のあの時、親に逆らっても見に行けば良かったと時々悔やむことがある。1970年3月に起きた「よど号」ハイジャック事件だ。当時、事件の主舞台の一つとなった福岡空港(当時は板付空港)近くに住んでおり、小学生だった私は米軍機を見に自転車でよく通っていた。その板付で大事件が起きたとテレビで大騒ぎなのである。中身はよく理解できなかったが、とにかく大事件ならば野次馬は行かねばならない。そう親に告げて板付に向...

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高校学食の思い出話三題

 先日、高校の学食の思い出話で家族と盛り上がった。くだらない話ばかりだが、結構面白かったので、一部を紹介したい。 ドリアを生まれて初めて食べたのは1970年代後半、高校の学食でだった。学食にはカレーや焼きめし、うどんなどの定番メニューのほかに、日替わりのA定食(値段は200円)とB定食(230円)があり、ある冬の寒い日、A定食でドリアが出てきたのだ。黒板のメニューに料理名は書いてあったはずだが、当時はドリア自...

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