2012/03/11
磐井の墓・岩戸山古墳
磐井の乱(西暦527~8年)で、ヤマト王権に滅ぼされた筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)に、風変わりな句が刻まれた碑があった。
稲妻や人形が原の魂よばい
芭蕉の門人、向井去来(蕉門十哲に数えられている)が元禄年間、この古墳を訪れた時に詠んだ句だと伝えられる。「魂よばい」とは、死者の名前を呼び蘇らせようとする呪術的儀礼だ。「人形が原」は、石人・石馬(古墳の石製装飾)が林立する風景から、古くは岩戸山古墳のある台地がこう呼ばれていたという。現在も岩戸山古墳の周囲には、複製品ながら石人・石馬が並び、特徴的な景観を形作っている。去来が詠んだ魂よばいは、誰を蘇らせるためのものだったのだろうか。磐井と思いたいところだが、彼の墓所が岩戸山古墳と特定されたのは残念ながら戦後のことで、江戸時代には石人山古墳(八女市の西側の広川町にある)だと考えられていたようだ。
岩戸山古墳は、全長135㍍の前方後円墳で、九州では宮崎県の西都原古墳群にある女狭穂塚、男狭穂塚などに次いで4番目の大きさだ。磐井が生前に築いた寿陵だとされている。日本最大の大仙陵古墳(全長525㍍)をはじめとする畿内や岡山の大古墳に比べれば、ちっぽけな古墳に思えるが、「全国的に前方後円墳が小形化する六世紀前半という時期にあって、大王墓に匹敵する大きさである」(『謎の大王継体天皇』2001)と評されている。磐井を滅ぼした継体天皇の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市。宮内庁は別の古墳を継体天皇の陵墓としている)が全長190㍍。匹敵とは言えないものの、迫る大きさなのは間違いなく、岩戸山古墳の規模はすなわち、磐井の持っていた権力の大きさでもあったのだろう。
私は中高校生の頃、磐井の乱とは、新羅にそそのかされた九州の在地豪族がヤマト王権に対して起こした“反乱”だと習った。ヤマト王権が、勢力下にあった朝鮮半島諸国を新羅に奪われ、奪回のための遠征軍派遣を企図、新羅はこれを阻むため、磐井に賄賂を贈り、遠征軍の渡海を邪魔させた、と『日本書紀』に記されていたためだ。しかし、現在では、磐井の持っていた対外交流拠点(港)を奪うため、戦いを仕掛けたのは、むしろヤマト王権側だったとする説さえある。
教科書の記述は依然、「大王権力の拡大に対しては、地方豪族の抵抗もあった。とくに6世紀初めには新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模な戦乱をおこした。大王軍はこの磐井の乱を2年がかりで制圧し、北部九州に屯倉を設けた」(山川出版『詳説日本史』)などと、磐井と新羅との同盟関係が強調されているが、前掲書によると、新羅との特別な結びつきを証明する遺物は発見されていないという。国賊扱いだった磐井はいま、少なくとも地元・福岡県では郷土の英雄として再評価が進んでいる。
磐井の息子・葛子は、王権に「糟屋の屯倉」を差し出し、助命された。古墳横にある岩戸山歴史資料館(入館料130円、小中学生70円)の展示資料によると、磐井の乱後も八女丘陵上には大型古墳の造営が続き、王権に存続を許された磐井の子孫たちがなおも大きな勢力を維持したことを示している。丘陵上には全長10㌔以上にわたって150~300基の古墳があったと考えられるという。150~300とはずいぶんアバウトな数字だが、戦後、多くの古墳が開墾によって破壊され、痕跡しか残っていないケースも多いためらしい。現存するのは岩戸山、石人山などの前方後円墳11基をはじめ80基程度のようだ。
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