旧聞since2009

古代は港町だった西新

DSCF5231.jpg

 福岡市早良区西新の県立修猷館高校の下に、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落跡・西新町遺跡が眠っている。古墳時代前期(3世紀末~4世紀初め)には半島との国際交流拠点として栄えたと見られ、この時代のカマド付き竪穴住居跡が多数見つかっている。国内他地域でカマド付き住宅が広がるのは5世紀頃というから、ほぼ100年早い。古代の一時期、この一帯は国内最先端の港町だったようだ。

 同遺跡の発掘調査は修猷館高校の全面改築時(1998年度から8年間)をはじめ20数回にわたって行われている。遺跡の規模は集落部分だけでも東西500㍍、南北200㍍に及び、確認された竪穴住居跡は500軒以上。多くは古墳時代のもので、その3~4割にカマドが備え付けられているほか、半島製の様々な土器なども出土している。

 修猷館改築の際の県教委の報告書によると、弥生時代には漁を主な生業とする「浜辺の村」に過ぎなかった集落が、古墳時代、九州の在地勢力により国際交易のための港町として整備されていったことが推測されるという。

 しかし、この集落も古墳時代中期(4世紀半ば~5世紀末)になると急激に衰え、あっさり消滅する。県教委は報告書の中で「畿内勢力が対外交易を直接掌握したため」という考えを提示しているが、畿内勢力(ヤマト王権)が対外交易を握るのは古墳時代後期に起きた磐井の乱(527~8年)に勝利した後という見方もある。西新町遺跡の勢力から対外交易の実権を奪ったのは、むしろ磐井の先祖の方だったかも知れない。磐井の乱後、その子葛子は「糟屋の屯倉」をヤマト王権に差し出し、助命されたとされるが、この「糟屋の屯倉」こそが港だったとも言われる。

 面白いことに、西新町遺跡の集落が消滅して後の約1,000年間、この一帯では人が住んだ痕跡が見つからないという。本来は海岸近くの砂丘地帯のため、砂まじりの潮風が人の定住を阻んでいたのだろう。西新一帯の昔の海岸線の辺りには立派な松が今もところどころ残っているが、これは黒田藩の初代藩主・長政の命で整備された防潮林の名残り。西新に再び集落が築かれていったのは、3代藩主・光之の時代に紅葉神社が創建されて以降らしい。
関連記事