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扉越しに見学できる丸隈山古墳の石室

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 福岡市西区周船寺にある丸隈山古墳の石室を見てきた。古墳時代中期、5世紀前半に築造された前方後円墳で、墳丘全長は福岡市内では最大規模の85㍍。平地に盛り土をしたのではなく、高祖山(416㍍)から延びる丘陵部を削って築造された古墳だ。墳丘上は広場になっており、後円部の中央に当たる場所に、百済の影響が色濃いと評される横穴式石室が残されている。石室の入り口は鉄製の扉で閉ざされてはいるが、隙間越しに石棺が置かれた内部を見学できる。写真でわかるように、石室はほぼむき出しの状態で、これでよく残っていたものだと感心したが、現在の姿は1927~8年(昭和2~3年)に復元されたものだという。

 この古墳が発掘されたのは江戸時代初期の1629年(寛永6年)のことで、貝原益軒が著した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』には「村民新蔵といひし者、村の南道路の上なる丸隈山と云所に、石棺あるよし夢にみて、八月廿一日より掘りかかり…」と発掘の経緯が紹介されている。言い伝えでは、この時に小仏像が出土したため、これを祭るお堂が石室内に設けられ、信仰の対象になっていたという。昭和の復元は、お堂が朽ちたことがきっかけだったようだ。

 古墳が築造されたのは仏教伝来(538年、または552年)よりも1世紀も前のことだが、すでに仏教が広がっていた半島とのつながりが強い北部九州だから、伝来以前に仏像がもたらされた可能性はゼロではない、とは思う。ただし、福岡市教委から2冊刊行されている丸隈山古墳の調査報告書には「石室内から採集されたとする小仏像が信仰の対象となり」などと触れられている程度で、学術的な考察はまったくなく、唯一、明治時代に実見した研究者の「洋式上新しく当初からの副葬品ではない」という見方が紹介されている程度だ(『丸隈山Ⅱ』1986)。ひょっとしたら、現在は残っていないのだろうか。

 現存している副葬品は、二面の仿製鏡(中国製の鏡を模倣した国産の鏡)や鉄鏃、勾玉、管玉など。また、石棺からは頭骨片も出土しており、熟年男性のものではないかとみられている。

 同古墳は石室復元が終わった1928年に国史跡に指定されているが、これは福岡市では最も早い指定だ。さらに2004年には、周辺にある他の6基の前方後円墳とともに「今宿古墳群」として改めて国史跡に指定されている。被葬者は当然不明だが、市教委の最初の報告書『丸隈山』(1970)は、次のような一文で報告を締めくくっている。昭和時代に発行された福岡市教委の埋蔵文化財調査報告書は、結構大胆な考察などが書かれていて、素人には面白い。

 丸隈山古墳の出現した5世紀前半代は、4世紀後半からひきつゞいて大和朝廷の朝鮮出兵が行われていた時期であった。北九州沿岸地域の族長達はその最前線にたたされる運命にあったのであり、おそらく丸隈山古墳の被葬者も幾度か朝鮮の地を踏んだことであろう。大陸系の新しい墓制をいちはやくとり入れる栄誉をになった動機もまたそのあたりにあるのかも知れない。


 ※2020年3月28日にほぼ全面的に書き直しました。
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