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戦いに敗れたムラ

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 福岡県筑紫野市にあった隈・西小田遺跡、永岡遺跡は考古学者から「戦いに敗れたムラ」と呼ばれている。いずれも弥生時代中期前半ごろ(約2000年前)の墓地遺跡。隈・西小田からは429体、永岡からは53体の人骨が出土しているのだが、青銅器の切っ先が突き刺さっていたり、頭を割られていたり、首がなかったり、あるいは首だけだったりと、無残な“戦死者”がとにかく多いのだ。当時の北部九州は、稲作社会の進展とともに土地争い、水争いが激しさを増し、極めて不穏な社会だったらしい。

 両遺跡の発掘調査は1970~80年代、西鉄沿線にニュータウンが建設されるのに伴って行われた。残念ながら現在は跡形もない。隈・西小田遺跡から出土した細型銅剣、重圏昭明鏡、鉄戈などの副葬品は国重文に指定されている。遺跡も一部なりとも保存できれば、国史跡指定は間違いなかったと思うのだが、福岡都市圏の膨張に迫られ、住宅地を供給することが優先されたのだろう。甕棺や青銅器など出土品の一部は、JR二日市駅近くにある筑紫野市歴史博物館で見ることができる(写真)。

 それぞれの遺跡ごとに分厚い調査報告書も出されている。どちらの報告書にも中橋孝博・九大教授(自然人類学)が出土人骨に関する論考を寄せているのだが、読み比べてみると興味深い。同じように不名誉な呼び方をされているとは言え、二つのムラの実態はかなり違ったようなのだ。甕棺のサイズから判断して、双方とも乳幼児をはじめとする未成年者の死亡率が高かった点は共通しているが、数字には差がある。被葬者のうち、未成年者が占める割合は隈・西小田の40~50%に対し、永岡は実に70%にも上るという。

 当然、平均寿命にも相当の差が出てくる。同教授によると、隈・西小田の平均寿命は25~30歳で、古代人としてはやや長命の部類に入るが、永岡の場合は10歳代前半にとどまる。これでは人口の維持すら困難だという。同じく戦乱の中にあったムラだが、永岡の方がより過酷な環境に置かれていたと思われる。勝手な推測だが、二つのムラは、現在の春日市を拠点としていた奴国の侵攻にさらされていたのではないだろうか。永岡遺跡は隈・西小田よりも4km近く北にあり、ここが戦いの最前線だったのかもしれない。

 出土した人骨は、両遺跡ともに高顔・高身長の渡来系弥生人の特徴が際立っており、成人の平均身長は隈・西小田遺跡の場合、男が163.5cm、女が152.4cmにも上るという。これは「長身だった金隈の弥生人」で取り上げた金隈遺跡(福岡市博多区)の弥生人(平均で男162.7cm、女151.3cm)よりも高い。
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