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福教組が歪めた元寇

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 好天に誘われ、福岡市西区の生の松原海岸を散策し、復元されている元寇防塁の写真を撮ってきた。有名な『蒙古襲来絵詞』に登場するのが、ここ生の松原にあった防塁だ。元寇防塁は、最初の元寇「文永の役」(1274)の後、鎌倉幕府が九州各国に命じて博多湾岸に築かせた防御ライン。2度目の元寇「弘安の役」(1281年)では、朝鮮半島を発した元軍の先陣、東路軍の博多上陸を阻んだ。東路軍はやむなく防塁が築かれていなかった志賀島に上陸するが、鎌倉武士団の猛襲を相次いで受け、いったん壱岐に撤退。東路軍はこの後、伊万里湾沖の鷹島で遠征軍の主力・江南軍と合流したが、直後に暴風が襲い、元軍は壊滅したと伝えられている。

 こうしてみると、防塁は元軍壊滅の遠因だったと言えるだろう。防塁の存在や彼我の戦力等をもとに勝敗を検討した陸上自衛隊第4師団司令部(福岡県春日市)は、仮に暴風がなくても日本軍の勝利に終わったと結論付けているほどだ(『本土防衛戦史―元寇』1963)。当時の鎌倉武士団は「やーやー我こそは」などと名乗りを上げている間に討ち取られるような間抜けな軍隊では決してなかったはずだ。でなければ、あの広大なユーラシア大陸を席巻した強大なモンゴル軍を、どんな形であれ二度も撃退できたはずがない。

 だが、私が小学生だった1970年代、鎌倉武士とは元軍に一騎打ちで挑むアナクロな集団であり、防塁とは無用の長物の代名詞だと教わった。防塁に使われた石は後代に漬物石として重宝されたのが関の山だったとも。私と同じ中高年世代には、同じように習ってきた人が多いのではないだろうか。今になってわかることだが、これが当時の歴史認識だったというわけではない。福岡には、史実を歪めてまでイデオロギーを主張するような教員たちがはびこっていたのだ。

 この時代、福岡県内では福教組なる教職員組合が異常なほど幅を利かせており、組合員の教員たちは学校現場でやりたい放題だった(現在でもか?)。上記のような偏向教育は当たり前。それどころか、ストだの旧社会党系の選挙だの私的な用事だので彼らが授業を放り出すのは日常茶飯事だった。当然ながら子供たちは自習。あの悪名高き「ゆとり」教育が始まったのは1980年度からだが、福岡県ではそれ以前から、教員たちが勝手にゆとり教育を行っていたのも同然だ。全国学力テストの結果を見ると、県内小中学生の学力は総じて低いが、その遠因は福教組が傍若無人に振舞っていたこの時代に遡るに違いない。

 だが、あれほど隆盛を極めた福教組の組織率は聞くところによると、現在では3割を下回るらしい。私の小学校時代に比べれば、まともな時代になったと思うが、見方を変えれば、まだ3割近い教員が福教組に加入していることになる。その3割の多くは恐らく、新学期の担任発表の際、父母や子供たちから「外れ」と嘆かれていることだろう。
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