2013/01/31
ミイラになった黒田綱政
前回書いた「小倉で黒田二十四騎」で、福岡市博多区千代の崇福寺・黒田家墓所に、福岡藩4代藩主・綱政(1659~1711)のミイラが眠っていることを紹介した。この殿様はいったい、なぜミイラになどなったのだろうか。
最初にミイラ発見の顛末を振り返っておくと、発見されたのは1950年(昭和25年)5月23日、黒田家墓所を改装している時だった。所蔵文書調査のため崇福寺を訪れていた今枝愛真・東大名誉教授(故人、専門は日本仏教史)が偶然にも発見に立会い、その時の模様を雑誌『日本歴史』(吉川弘文館)1950年9月号に以下のように書き記している。
「(略)驚くべきことにはこの甕の中には綱政の遺骸そのものが整然たる体裁を具備した埋葬の時のままの形で出て来たのである。即ち正面を破った甕の中に綱政の坐姿―全身は白布で捲かれている―が見出された。調査の結果は頭部のみがミイラで、他は屍蝋という判断であったが、かかる全身が完全に保存されていたのは、身体の下の甕の底に二・三寸程の高さに置かれていた玄米が水を吸い込んだ為ではあるまいかという説があったが、この点は明かではない」(原文は旧仮名遣い)。
今枝氏は、綱政の遺体がミイラになったのは偶然と考えているようにも受け取れるが、地元福岡では意識的に作ったと考えられている。例えば、福岡市刊行の『ふくおか歴史散歩』第一巻には次の記述がある。
「『黒田新続家譜』その他の記録によると、綱政の死後、家老隅田主膳はお家騒動(黒田騒動)を恐れ、病気と称して二ヶ月間その死を秘し、藩医篠田宗山、鷹取養巴らに遺体が腐敗しないよう処置することを命じたのである」。「貝原益軒らはエジプトのミイラの製造法を知っていた」とも書かれている。
幸い『黒田新続家譜』は活字本になっている。図書館でめくってみたのだが、『ふくおか歴史散歩』に書かれているような記述は探し当てることができなかった。『黒田新続家譜』とは黒田家の公式記録である。単に私の読み込みが足りないだけかもしれないが、「病気と称して二ヶ月間その死を秘し」などの極秘であるべき情報を大っぴらに記録するだろうかと疑問に思わないでもない。“その他の記録”の方に書かれていたのだろうか。
益軒が製造法を知っていたとの記述に至っては信じ難い。確かに益軒は『大和本草』でミイラを取り上げているが、その正体を「罪人ヲトラヘテ薬ニテムシ焼ト云此説是ナリ」と記しているぐらいである。
とは言え、綱政がミイラとなっていたのは紛れもない事実である。また、彼の時代は家督相続を巡る暗闘が続いていたと言われ、彼には幽閉されていた兄・綱之を暗殺したとの嫌疑が掛けられている。綱政自身にも暗殺されたとの説がある。この時代背景を考えれば、綱政が生きているように見せかけるため防腐処置を施したとの見方には説得力がある。私にも綱政のミイラは陰惨な政治状況の産物と思える。もっと詳しく調べてみたいのだが、せっかく黒田藩政期の古文書が数々公開されているのに、読み解く力がないのが残念である。
写真は、綱政をはじめ計6人の藩主が眠る合葬墓。比較対象がないのでわかりにくいが、この墓碑は物凄く大きい。
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コメント
今まで私は山門こそ眺めてみるものの、それで満足してさっさと帰ってしまってたんですよね。次に訪れた際は境内もしっかり見て回ろうと思います。
博多人様