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獄中自殺した第2の帝銀事件犯人

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 死刑囚に対し、執行が言い渡されるのは当日の朝だといわれる。以前は前日に告知していたが、執行直前に自殺した死刑囚がいたため変更されたという。その死刑囚とは、筑後市ボーナス強盗事件の犯人で、1975年、福岡拘置支所(現在は福岡拘置所、写真)で自殺した津留静生(死亡時43歳)だと言われている。ボーナス強盗事件は1964年の発生当時、「第2の帝銀事件」と騒がれた凶悪犯罪だが、津留はその犯人としてよりも、死刑執行の慣行を変えた人間として名前を残している。

 津留が自殺したのは1975年10月3日早朝。独房からうめき声がするのに巡回中の刑務官が気付き、室内に入ったところ、津留がカミソリの刃で左手首を切り、血まみれになっていた。すぐに応急手当をした後、担当医を呼んだが、助からなかったという。

 この一件が報道されたのは3週間あまりがたった同年10月26日。当時は死刑執行の事実さえ明らかにされていなかった時代で、当局側は恐らく、この不祥事を表沙汰にするつもりなどなかったのだろう。当然ながら、津留の自殺が死刑執行直前だったことなど公にされるはずもない。当時の新聞には自殺の動機について、「6月に福岡事件の西武雄死刑囚の死刑が執行されたが、津留は西の姿が見えなくなったことで執行に気付き、気が滅入っていたと考えられる」という職員のもっともらしい談話が掲載されている。

 問題は死刑囚がどうやってカミソリの刃を入手したかだが、これが現在に至るも謎らしい。同種の刃が付いたT字型のカミソリを入浴時などに貸し与えていたというから、刃を外して隠し持っていたのではないかと思うのだが、“公式発表”では刃を外す器具は一部の刑務官しか所持しておらず、また紛失の記録もないことになっている。容易には信じ難いが、津留が使った刃はわずかに錆付いており、新しいものでなかったようだ。あるいはかなり以前に手に入れ、その日に備えて隠し持っていたのだろうか。

 筑後市ボーナス強盗事件について振り返ると、彼が事件を起こしたのは1964年暮れ、同市のボーナス支給日当日だった。当時、彼も同市職員として市立病院の運転手を務めていた。ボーナス運搬役の3人が銀行から出てくるのを待ち伏せしていた彼は、「二日酔いにきくから」と言って青酸入り栄養ドリンクを勧め、3人を毒殺して金を奪おうとした。しかし、2人は飲み干しその場で昏倒したものの(後に2人とも死亡)、残る1人は途中で吐き出したため、強盗は未遂に終わった。

 1970年1月の最高裁判決によると、自宅の新築費や塗装工場を経営する(市職員の傍ら、自営業をしていた)資金作りに困っての犯行だったとされている。しかし、後にこの事件を洗い直したフクニチ新聞の記事(『実録・福岡の犯罪』として葦書房から刊行されている)は、金を強奪した後の逃走計画は白紙で、「本気で金を奪う気があったのかどうか事件当時でも疑問視する捜査員がいたほどだった」と不審がっている。当時、津留は嫁姑の対立や親の介護などで憔悴しきっていたという。このため裁判では津留の精神状態が主要な争点となり、弁護側は事件当時は心神喪失状態で、発作的な犯行だったとの主張を展開している。

 死刑囚の自殺事件はこのほか、女性デザイナー誘拐殺人事件(1965年)の山川真也(1977年5月21日、東京拘置所で独房の窓ガラスを割り、破片で首を切る)、一家4人をライフル銃で射殺した北海道・平取事件(1979年)の太田勝憲(1999年11月8日、安全カミソリの刃で首を切る)等々、各地で結構起きている。
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