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古代に糸島運河はあったか

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 博多湾西部の今津湾(福岡市西区)と船越湾(糸島市、写真中央)とはかつて、ひと続きの海峡だったという説があった。両湾の間には現在、標高5㍍以下の低地帯が広がっているが、海水面が現在よりも高かった古代には海だったというものだ。藩政時代の地誌『筑前国続風土記』には「昔は今津の前、夷魔(いま)山の後ろの入海西へ通り…」と海峡説を裏付ける一文があり、これらを論拠に、戦前に出版された『糸島郡誌』(1927)は「昔は今津加布里の間海峡をなせしことは疑うべき余地なし」と断言している。ボーリング調査などにより、現在では海峡の存在は否定されているが、二つの湾が現在よりも大きく内陸に入り込んでいたのは確かで、古くから盛んに干拓が行われてきた歴史がある。

 ボーリング調査を行ったのは九州大理学研究院の研究者で、『新修志摩町史』(2009年)には、この研究者が書いた海峡についての考察がある。それによると、1,000年ぐらい前までは海だったことを示す地層(海成層)がJR筑肥線沿線にあるのは事実だが、糸島市志登、泊地区一帯ではこの海成層が途切れており、海水面が最も高かった時代でも糸島半島は本土と陸続きだったと考えられるという。

 ただ、今津湾と船越湾とを隔てる陸地(地峡)は、最も狭い所では幅1㌔程度だったとみられる。研究者は海峡の存在には否定的ながら、両湾の間を陸路で船を運んだ、あるいは運河があった可能性を示唆している。

 博多湾、船越湾とその北側にある引津湾は弥生時代以降、半島との交流拠点だったと言われる。博多湾と船越・引津湾との間も船の往来が盛んだったとみられるが、糸島半島沖を通るルートはかなり遠回りになる上、同半島沖は潮流が早く、小型船にとっては現代でも難所だという。だとしたら、弥生時代の環濠集落の建設、古墳時代の大型古墳造営などに見られるように、ダイナミックな土木工事を行っていた古代人ならば、運河を掘削したとしても不思議ではないと想像が膨らむ。現実に奈良県桜井市の纏向遺跡で、3世紀後半に築造されたとみられる運河遺構が確認されたのをはじめ、古代の運河遺構は国内でも複数見つかっている。

 ところで、この「糸島運河」構想は20年程前、本当に持ち上がったことがある。地場ゼネコン(現在は倒産)の関係者や学者グループが提唱したもので、上記と同じ事情で、糸島半島沖を通らない海上交通路を整備するとともに、閉鎖性水域のため水質悪化が進む博多湾の浄化を図る狙いだったという。もちろん、構想は一歩も進まなかったと思われ、調べた限りでは、行政レベルでは議論された形跡もない。

 福岡都市圏の膨張により、20年前と比べ、糸島一帯は都市化がずいぶんと進んだ。もはや「糸島運河」の実現は不可能だろうが、運河を中心に据えた都市開発という試みは結構面白みがあったと思う。
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