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富岡製糸場の現存を知らなかった

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 この大型連休中、ユネスコ世界文化遺産への登録が確実になった群馬県の富岡製糸場に行ってきた。中高校生の頃、明治時代の「殖産興業」の項目では必ず習ったあの富岡製糸場が今も当時の姿のまま保存されているとは、今回の世界遺産の話題が出るまでまったく知らなかった。いくら群馬から遠い九州に住んでいるからとは言え、無知を恥じる以外にないが、少し責任転嫁させてもらうならば、日本史の教科書も悪いと思う。

 富岡製糸場の説明のため教科書で使われている図版はおおむね完成当時に描かれた錦絵ではないかと思う。現に山川出版社の改訂版『詳説日本史』(2010)にも「富岡製糸場の内部(錦絵)」という時代を感じさせる絵が使われている。2枚目の写真は入場券の半券だが、私が高校時代に教科書で目にしたのは、恐らくこの錦絵だった。歴史の教科書の使命ではないのかもしれないが、製糸場の現在の写真を掲載し、1872年(明治5年)完成の建物の多くが立派に現存していることを広く伝えるべきだったのではないだろうか。

 富岡製糸場、正確には戦前の生糸産業に関し、もう一つ私が勘違いしていたことがある。製糸や紡績と聞くと、どうしても映画『あゝ野麦峠』を連想してしまい、地井武男さんに背負われて峠を越える大竹しのぶさんの映像が思い浮かぶのだ。生糸産業=悲惨というステロタイプな印象が刷り込まれてしまったわけだが、私と同様の勘違いをしていたのか、それとももっと深い理由があったのかは知らないが、最近ある方がネット上で富岡製糸場を「ブラック企業の元祖」と論評。これに多くの方が反論し、ヤフーニュースでも取り上げられるなど話題となっていた。

 官営模範工場として設立された富岡製糸場の労働条件は極めて先進的なものだったらしく、工女(女工ではなく工女と富岡では呼ぶ)たちの一日の実働時間は7時間45分、日曜は休日など“女工哀史”とは無縁の世界だったというのが定説だ。工場が民間に払い下げられた後もこれは同様だったらしい。

 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにある『甘楽産業叢談』(矢島大八編、1909)という富岡地方の郷土資料には「工女を優待すること至れり尽くせりで、営利工場として斯かる施設は全国中到底当所の右に出づるものはない」と記されている。この資料が出版された1909年(明治42年)は、官営から三井を経て原合名会社という企業が製糸場の経営に当たっていた時代だ。地元礼賛の記述である点を割り引いても、工女たちがこの時代も厚遇されていたことは確かだろう。

 もちろん富岡製糸場が終始一貫して労働条件・環境に優れた職場であったはずはなく、ネット上には「富岡にも女工哀史はあった」と指摘する意見もある。ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録するようユネスコに勧告した際、配慮事項として当時の労働環境の研究を深めることなどを求めたのは、あるいは富岡製糸場=工女の楽園という別な意味でステロタイプな見方を戒める意味があるのかもしれない。いずれにしろ、これを機会に労働条件・環境に関する研究は進展することだろう。

 ところで、今なお堂々たる姿をとどめる富岡製糸場の建造物群だが、廃墟どころか倒壊した建物が1棟あったので驚いた(一番下の写真)。繭の乾燥場だった建物で、倒壊現場前にあった立て看板によると、今年2月14~15日の記録的な大雪で半壊したという。この「平成26年豪雪」により関東内陸部などで大きな被害が出たことはニュースで知っていたが、それを5月になって目の当たりにするとは思わなかった。九州、中でも積雪がほとんどない福岡市の沿岸部に住んでいると、雪が凶器になるということを実感する機会など滅多にない。


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