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松田…なのか?

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 博多祇園山笠が7月1日開幕し、市内各所に飾り山がお目見えした。写真はソフトバンクホークスの選手が登場するヤフオクドーム前の飾り山だ。人形師の人には大変失礼ながら、毎年、人形を見ただけでは誰をモデルにしたのかさっぱりわからないが、今年は特に悩ましい。人形の写真を見て誰だかおわかりになるだろうか。

 左側の写真はサルがユニホームを着ているわけではない。ゴリラでもない。アンダーシャツの襟もとに書かれた「5」の数字でわかる。松田である。右側は対照的にスッキリした顔立ちだが、こちらは長谷川だ。ホークスが誇る生え抜きの強打者2人だが、山笠人形の出来はずいぶん差があるように思え、少し松田が可哀想になった。あれでも現段階ではチームのホームラン王なのだが…。

 福岡の人には今さら説明するまでもないが、飾り山笠には必ず表と見送り(裏側を見送りと呼ぶ)があり、ヤフオクドーム飾り山の今年の見送りは「合戦大保原」がテーマだ。南北朝時代の1359年、南朝方の懐良親王、菊池武光と北朝方の少弐頼尚らが戦った九州最大の合戦で、「筑後川の戦い」とも呼ばれている。下の写真の一番上に飾られているのが懐良親王、その下の武将が菊池武光だ。

 筑後川をはさみ南朝方4万、北朝方6万の軍勢が対峙したと伝えられるこの戦いでは、激戦の末に南朝方が勝利を収め、武光は武名を轟かせた。「菊池神社」「菊池一族の首」で取り上げた菊池武時の跡継ぎに当たる人物だ。

 その「菊池神社」の中で、最後の福岡藩主・黒田長知が明治2年に武時を祭る菊池神社を建立した理由について、天皇の忠臣を称えることで「明治新政府に媚を売ったのではないか」と書いたが、少し違うのではないかと思い始めたので、この場で訂正しておきたい。

 幕末、武時を「楠木正成と並ぶ忠臣」として最初に顕彰を図ったのは平野国臣だったという。平野国臣とは福岡藩の下級藩士の家に生まれ、後に脱藩して勤王の志士として活躍した人物。欧米列強に対抗するためには、幕府を倒し、強力な統一政府を作るべしと早くから訴えてきたシャープな政治感覚の持ち主で、彼の主張が明治維新の原動力になったと評価する意見さえある(『類聚伝記大日本史』1935)。

 国臣は明治維新前の1864年(元治元年)に非業の死を遂げているが、明治新政府内の評価は極めて高いものだったと言われ、維新に乗り遅れ冷遇されていた福岡藩内には「国臣が生きていてくれれば」と嘆く声が多かったという。黒田長知が「明治新政府に媚を売る」ため奉ろうとした人物は、菊池武時ではなく、彼を再評価しようとした平野国臣の方だったのではないだろうか。黒田長知による唐突過ぎる菊池神社創建の理由は、南北朝時代に遡るよりも、幕末にあると考えた方が合理的な気がする。


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