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日銀北九州支店、初代支店長は高橋是清

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 日銀福岡支店の建て替えが発表された。福岡市中央区天神の昭和通り沿いにあり、重厚な外観が街のアクセントともなっていた。今年で築64年。老朽化が建て替えの理由だ。全く縁のない建物だったため「惜しい」という気持ちはなかなか湧かないが、福岡からまた一つ古い建物が消え去っていくのは確かだ。

 同支店のウェブサイトによると、開設は1941年(昭和16年)12月1日。全国32支店の中で19番目の開設だというから比較的後発の部類だ。県内では、北九州支店がこれより半世紀近くも早い1893年(明治26年)10月、大阪に次ぐ全国2番目の支店として門司港に開設されているという。そこで北九州支店のウェブサイトも開いてみたが、驚いたことに初代支店長は、後に二・二六事件で殺害される蔵相、あの高橋是清だった。

 当時の支店名は、西部(さいぶ)支店で、ただし、開設当初は門司港ではなく、対岸の山口県下関市(当時は赤間ヶ関市)に仮店舗を置いていた。門司港での業務開始は1898年(明治31年)のことで、高橋はこれに先立ち1895年8月には、2年の勤務を終えて離任している。初代北九州支店長と言いながらも、実際には北九州勤務はなかったことになる。

 高橋の足跡が残る下関市には2013年10月、顕彰碑が建てられている。この時に発行された小冊子『高橋是清と下関』に、元日銀下関支店長の岩下直行氏が一文を寄せ、全国2番目の支店が門司港に置かれた理由を解説している。当時、九州から東京、大阪に農産物や石炭が出荷され、代金決済のために大阪支店から現金が輸送されていた。しかし、多額の現金の輸送は手間がかかるため、現金が不足気味で、金利が高騰するのが常だった。このため、九州の実業家は、全国平均よりも高い金利払いを強いられていたという。この解消のための支店開設だったのだ。

 当時の門司港の街はまだ、寒村同然だったようだ。高橋は『是清翁一代記』(朝日新聞社、1930)の中で、「当時門司には九州鉄道会社の本社があった位で、その周囲は多くは痩せた畑と塩田とであった」と回想している。門司港は後に大陸への玄関口として発展し、「九州の大都会」とうたわれるが、その礎となったのが九鉄本社と日銀西部支店だったのだろう。

 なお、『一代記』は高橋の口述をまとめたもので、高橋の下関勤務時代にはちょうど、日清戦争の講和会議が同地の旅館「春帆楼」で開かれており、これについても多くのページが割かれている。西部支店の仮店舗が去った下関には、約半世紀後の戦後1947年12月、支店が開設されている。
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