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基山町の庚申塔

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 国特別史跡・基肄城跡を見学するため佐賀県基山町の農村部を歩いた際、庚申塔が道路沿いのあちこちに建っているのが目に付き、写真に収めてきた。庚申塔など、私の生活圏では福岡市早良区藤崎にある猿田彦神社でしか見掛けない。しかも本殿裏にひっそりと建っている。Wikipediaによると、明治新政府は庚申信仰を迷信として庚申塔撤去を進め、高度成長期の道路拡張によっても、さらに撤去や神社等への移転が進んだとある。農村部ではこれに漏れた庚申塔が多かったのだろうか。それにしても堂々とした庚申塔ばかりだった。

 庚申信仰は、もともとは道教を起源とする民間信仰だった。江戸時代、申(サル)、猿(サル)というつながりで猿田彦神社と結びつけられ、本来は起源を異にする信仰の習合が進んだという。

 庚申塔は江戸時代に盛んに建立され、その後撤去が進んだとは言え、福岡市にも1999年時点で505基が残っていた(『福岡市の庚申塔』福岡市教委、1999)。16年前に行われた調査なので、その後の変動はあると思うが、区ごとの数字を紹介すると、東89、博多85、中央17、城南18、南66、早良65、西165。中央、城南区が極端に少なく、西区が多い。恐らく面積の広狭とともに、市街化の進み具合が関係しているのだろう。

 『福岡市の庚申塔』によると、庚申塔には「庚申天」「庚申尊」などと刻まれた庚申系と、「猿田彦大神」などと刻まれた猿田彦系、さらに庚申信仰の本尊ともされた青面金剛像などが刻まれたその他があるという。確かに基山町でも庚申系、猿田彦系それぞれを見掛けた。気付かなかったがその他の系統もあったかもしれない。

 福岡市分の内訳は、庚申系が293、猿田彦系が192、その他が23(※505基の庚申塔のうち、裏表が利用された塔が3基ある。この内訳ではダブルカウントされているため合計は508基)。庚申系が過半数を占めているが、建立年代が判明しているものは庚申系から猿田彦系への移り変わりが確認できるという。

 ところで、明治政府はなぜ躍起になって庚申塔の撤去を進めたのだろうか。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに収められている『民間信仰の話』(広瀬南雄述・長崎法剣編、法蔵館、1926)に参考になりそうな記述があった。明治時代ではなく、大正末に出版された書籍だが、これによると、庚申、猿田彦はいずれも生殖の神としても扱われていたようだ。庚申の夜には「風俗壊乱的なことが行われたものである」との記述もあり、風紀面の問題で政府から目の敵にされたのだろうか、と思った。
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