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基肄城と荒穂神社

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 荒穂神社という社が天拝山(福岡県筑紫野市、258㍍)の中腹にある。社殿の背後には「磐座」と呼ぶのか、巨大な岩が鎮座しており、この岩こそが本来の信仰の対象であったろうと想像される。貝原益軒の『筑前國続風土記』(以下、続風土記)には「荒穂大明神社」の名で記載があり、これには「此社は肥前国基肆郡宮の浦村の荒穂明神社を勧請せり」と由来が記されている。祭られているのは五十猛神(イタケル、またはイソタケル)だという。

 先日、筑紫野市と佐賀県基山町にまたがる基山(404㍍)に登っての帰路、基山町宮浦地区で偶然、本家の荒穂神社に出くわした。続風土記に「近郷の惣社にて、大社也」と書かれた通り、歴史と風格を感じさせる大きな神社だった。

 続風土記にはまた、宮浦の荒穂神社はもともと基山(続風土記は城山と表記)の山頂にあったと書かれており、この記述を受けて、天拝山の荒穂神社にある筑紫野市の説明板には「基肄城をとりまく山々に五十猛神が祭られたことがわかります」と記されている。

 基肄城とは白村江の戦い(663年)での敗戦後、唐・新羅の侵攻に備え、ヤマト王権が基山山中に築いた朝鮮式山城。この城を囲む形で五十猛神の神社が配置されたのならば、何らかの意図があるはずだが、残念ながらそれについての説明はない。『筑紫野市史』(筑紫野市史編さん委員会、1999)にも関係する記述はなかった。また、基肄城がある基山と天拝山の二つだけで「基肄城をとりまく山々」と言えるのかも微妙だ。

 五十猛神は、素戔嗚尊の子供で、一般的に林業の神とされている。『日本書紀』によると、この神は多数の木々の種を携えて高天原から朝鮮半島にあった新羅に舞い降りたが、ここには一粒の種も植えることなく、列島に渡ってきた後、この地を緑の地に変えたという。これが林業の神とされる由縁で、五十猛神の“列島緑化”は筑紫の地から始まったとされている。二つの荒穂神社のほか、近辺では筑紫神社(筑紫野市原田)も五十猛神を祭っているという。

 これらの神社の創建時期はいずれも不明らしいが、『基山町史』(基山町史編纂委員会、1971)は宮浦の荒穂神社について「社伝によれば、大化元年(六四五)肥陽国造金連の後裔十三世金村臣によって基山山頂に創建されたとある」と紹介。また、平安時代の歴史書『日本三大実録』にある記載をもとに、「貞観二年(八六〇)頃すでに肥前四大古社の一つに数えられていたわけで、それ以前からの古社であることはまちがいない」と記している。

 天拝山の荒穂神社の創建については『筑紫野市史―民俗編』に「武蔵寺の縁起によれば武蔵寺を建立するときにその鎮守の社として荒穂社を建立したという」とある。武蔵寺の創建時期は奈良時代(710~794)とされている。

 一方、基肄城は665年に築城された後、平安時代初期まで使われたと言われる。荒穂神社の社伝が正しければ、基肄城とは無関係に建てられたことになる。社伝や寺の縁起は別にして、唯一信頼が置けそうな『日本三大実録』だけでは、荒穂神社創建が基肄城に関係するのか判断できない。

 五十猛神が新羅を経由して列島に渡ってきたという書紀の記述から、この神を半島由来と考える説がある。基肄城築城を指揮したのは、百済からの亡命者。五十猛神を祭る神社が本当に基肄城を取り巻いているのならば、何かこの辺りにヒントがあるかもしれないと思ったが、例によってよくわからない。筑紫野市も人を惑わすようなことを説明板にさらっと書くのはいかがなものかと思う。
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