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唐人町界隈地蔵巡り

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 福岡市中央区の唐人町商店街にあるパン屋を気に入り、最近足しげく通っては、ついでに界隈を散策している。商店街のアーケードはかつて、唐津街道が通っていた場所。また、唐人町から今川、地行にかけての一帯は城下の防衛ラインとして築かれた寺町で、歴史や伝説に彩られた地蔵や観音堂が点在する。ヤフオクドームのおひざ元である一方、藩政時代の記憶が今も色濃く残る街だ。

 先日は唐人町商店街近くにある成道寺に行き、八兵衛地蔵尊に参ってきた。“消防の守り地蔵”として今もなお信仰を集めるお地蔵さまで、毎年8月23日に行われる施餓鬼会には多くの消防団が纏を持って参拝するという。この地蔵が建立され、消防の守り地蔵となった経緯について、中央区のサイトには以下のように紹介されている。

 元禄時代、ある町で火事が起こり唐人町と須崎町の火消したちの間で火事場の争いから喧嘩が始まり、須崎町に数人の死者が出てしまいました。唐人町からは、下手人を奉行所に差し出さなければならなくなりました。
 この話を成道寺の近くに住んでいた肥後の浪人、森八兵衛が聞きました。八兵衛は以前、大病を患い、隣人に手厚い看護を受けて九死に一生を得たことを非常に感謝しており、「父母妻子のある若い命が失われるのは悲しいこと。独り身の私がこの罪を受けましょう」と自ら身代わりとして申し出ました。
 両町とも切羽詰まった状況だったことと、八兵衛の意志が強かったことなどから八兵衛に刑が執行されました。
 町の人々はその犠牲心を尊び、その供養のために建てたのが八兵衛地蔵です。

 これが美談なのかはさておいて、福岡城下では元禄時代(1688~1707)には町火消し体制が整っていたことになる。言い伝えではなく、実際のところはどうなのかと思い『福岡県史 通史編 福岡藩(一)』(1998)をめくったところ、福岡城内や博多の消防体制についての説明はあったが、なぜか城下に関してはなかった。ただ、以下の記載が参考になりそうだった。

 「天和二年(一六八二)になると、延宝八年の大火の経験からであろう。博多はもちろん、近在の消火を応援するための細かな対策と組織化が進んでくる。箱崎・馬出・堅粕・西東辻・住吉の六か村で火災が発生した場合、一組一〇〇人単位で消火に参加する組割りを行った」

 1682年には博多周辺部の村落にまで火消し制度を整えたというわけだから、当然、福岡城下ではこれよりも早く整備されていたと考えて間違いないだろう。元禄時代に唐人町と須崎町の火消しが大ゲンカしたというのはあってもおかしくないわけで、八兵衛地蔵の由来は、少しは信憑性のある話なのかもしれない。

 この日は足を延ばし、地行4丁目の円徳寺「おにぎり地蔵」、今川2丁目の金龍寺「妙清地蔵」も巡ってきた。「おにぎり地蔵」は享保の飢饉で餓死した人々を弔って建立された飢人地蔵の一つ(「享保の飢饉の餓死者数」)。赤い前掛けで隠れているが、小さなおにぎりを大事そうに持っておられる。

 「妙清地蔵」はかつて「朝鮮地蔵」とも呼ばれていたらしい。文禄の役(1592)の際、黒田二十四騎の一人、林掃部が戦乱で孤児となった女児をふびんに思い、半島から連れ帰って養育した。掃部の死後、恩を感じていた女性は尼(妙清尼)となり、掃部の菩提を弔って生涯を終えたという。地蔵は彼女を祭ったものだ。福岡では黒田武士の心優しい一面を表すエピソードとされているが、イチャモンを付けられそうなので隣国には内緒にしていた方が良いと思う。


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