2016/03/21
荒戸通町
先日紹介した福岡市中央区荒戸3丁目の「此の屋敷の供養塔」の正体は今もってわからない。供養塔自体は比較的新しいものに見えるが、“屋敷”というぐらいだから、建立の原因となった出来事は意外と古い時代に起きた可能性もある。町の歴史を調べてみた。
一帯は藩政時代、荒戸通町と呼ばれた唐津街道沿いの屋敷町で、『古地図の中の福岡・博多』(宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編、海鳥社、2005)によると、黒田藩上級家臣の大組10人、中級家臣の馬廻組21人が屋敷を構えていたという。同書で紹介されている1802~04年頃の古地図によると、供養塔が現在ある場所は当時、大川某の屋敷だったことがわかる。この大川家に何らかの凶事があったのならば、話は非常に簡単だ。
凶事と言えば、福岡藩では幕末の慶応8年(1865年)に起きた「乙丑(いっちゅう)の獄」が思い浮かぶ。勤王派の大粛清事件で、家老の加藤司書ら7人が切腹を命じられ、月形洗蔵ら14人が処刑されている。乙丑の獄により数多の人材を失い、黒田藩は維新に乗り遅れたと言われる程の大事件だ。この犠牲者の中に「大川」の名前がないかと思ったが、空振りだった。
また、処刑の場となったのは「枡木屋の獄舎」。現在の中央区唐人町、こども病院の跡地辺りにあったとされ、供養塔がある場所とは目と鼻の先だ。あるいは関係があるのではと思ったが、いくら近いと言っても別の場所に刑死者の供養塔を建てたと考えるのは、やはり無理がある。結局、乙丑の獄とは無関係なのだろう。
荒戸通町は幕末以降、非常に寂れていったらしい。『福岡・博多の町名誌』(福岡市都市計画局、1982)には「幕末期になると、家臣の知行地への居住が許されるようになり、在郷へ転出する者が多く、廃藩後はさらに極端なさびれをみせた」とあり、町の景観は急激に変わり果てたという。「竹垣破レテ犬ノ往来自由ヲ得タリ」という程の惨状だったらしいが、だからと言って何か大事件が起きたという記録はないようだ。
上の写真は、荒戸通町、現在の荒戸3丁目から唐人町商店街の入り口を写した。左側が問題の供養塔が建つ市営地下鉄唐人町駅の駐輪場、右側が古いたたずまいを残す黒門飴。かつてはこの前を黒門川が流れ、黒門橋が架かっていた。黒門橋のたもとにあったのが“黒門”で、「幕末期には佐幕派要人の暗殺事件が頻発し、その斬奸状が黒門に張り出され、勤王派のデモンストレーションの場ともなった」(『古地図の中の福岡・博多』)という。
「此の屋敷の供養塔」の由来は依然として不明だが、供養塔のある一帯が維新の荒波にさらされた場所であることはよくわかった。
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コメント
供養石碑について
そこで投身自殺かなにかがあり、その幽霊がでるといわれていたそうです。
その後、居酒屋とかに複数の店子に変わり、結局瑕疵物件なので、
民間に買手がつかず、公的機関に売却となったそうです。
いずれの出来事も昭和以降の出来事らしいです。
こちらの石碑の北部にある、荒戸湯の番台のおばあちゃんからの情報です。
今後も楽しいブログ、よろしくお願い致します。
いつもありがとうございます。
Re: 供養石碑について
供養塔の来歴についてはさっぱりわからず、途方に暮れていたところでした。
いただいた情報をもとに追跡調査が可能ならば、続報を書きたいと思います。
重ね重ねありがとうございました。