2016/05/12
博多の旧遊郭街・柳町
宮崎市・大淀川河口の中州「丸島」に遊郭があったという情報を先日取り上げた。地元・福岡市で遊郭街として知られるのは現在の中央区清川、以前は「新柳町」と呼ばれた町だ。例に漏れず最近はここもマンション街となりつつあるが、比較的近年まで色町らしい猥雑な雰囲気が残っていた。
「新柳町」と言うぐらいだから、旧「柳町」もあり、こちらは現在の博多区下呉服町から大博町にかけての石堂川(御笠川)沿い。福岡藩の初代藩主・黒田長政の命で造られた遊郭街で、『福岡町名散歩』(井上精三、葦書房、1983)には「慶長のころ、那珂川の河口に散在していた娼婦を、堅町浜に集め集娼地区とした。町名の柳町はここに柳があったわけではない。京都の萬里小路に最初の集娼地帯をつくったとき柳町と名付けたので、福岡もこれにならったもの」とある。元禄時代に編まれた貝原益軒の『筑前国続風土記』には遊郭の数は19軒で、60~70人の遊女がいたと書かれており、江戸時代を通じて規模はこの程度だったらしい。
柳町の遊郭街が新柳町に移転した理由は結構有名で、1903年(明治36年)、京都帝国大学福岡医科大が対岸の千代の松原に開校し、「遊郭の存在は授業の邪魔だ」と行政当局から移転を強制されたためだ。新柳町への移転が完了したのは1911年(明治44年)。医科大開学以降もしばらくは柳町の色町は残っていたわけで、出典は忘れたが、医科大教官の中には石堂川を泳いで遊郭に通い詰めた豪傑もいたという話を何かで読んだ。
柳町の遊郭街跡地は後に大浜小学校(統廃合で廃校)となり、現在は特別支援学校・博多高等学園のモダンな校舎が建っている。『福岡町名散歩』によると、戦後の一時期、石堂川沿いはスラム街となっていたというが、現在は「大浜河畔通り」というきれいな通りに整備され、ここにもまたマンションが建ち並んでいる。
遊郭街だった過去など普通は隠したがるものだろうが、博多高等学園前をはじめとして一帯の電柱には旧町名を紹介する看板が取り付けられ、それどころか、看板には遊郭があった時代の出来事さえ堂々と紹介されている。街全体を博物館に見立て、地域の歴史を伝えようという地元市民団体の取り組みだという。
1960年代に行われた町界町名整理により、福岡市では由緒ある古い町名の多くが消滅した。半世紀以上を経た現在、どこも似たり寄ったりの色気のないマンション街ばかりとなり、古い町名の記憶さえ失われつつあるが、博多部(狭義の意味での博多)だけは先の取り組みのお陰で、旧町名を容易に知ることができ、しかも町の歴史にも触れることができる。
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コメント
水茶屋検番について
大伯母は水茶屋が地名とは知らずに弟の結婚式にかこつけて茶屋遊びしてきたと誤解した笑い話がありますが、当時が検番あった事は確かなようで、箱崎の医科大学教授や医師が『会合?』に良く利用したようです。 現在千葉在の私なかなか現地を訪ねる機会がなく駄田泉にてご調査いただければありがたいのですが。
Re: 水茶屋検番について
お尋ねの水茶屋巻番ついては『博多郷土史事典』(井上精三、葦書房、1987)などにかなり詳しい説明がありました。略年表にすると、以下のようになります。
・元文5年(1740)、現在の濡衣塚(博多区千代3)の辺りに4軒の水茶屋が開かれ、以来、この一帯が水茶屋と呼ばれるようになった。
・明治7年(1874)頃から売笑地帯として急速に発展するが、明治22年(1889)に水茶屋での売春が禁止されて以降は寂れ、料亭も大半が閉店。
・明治34年(1899)、相生町(現在の博多区奈良屋町)巻番の運営に不満を抱いていた芸妓連が脱退。彼女らは水茶屋に引っ越し、新しい鑑札を受けて水茶屋巻番を開業。実業界の応援を得て明治末期には置屋20軒が建ち、常盤館、一方亭などの料亭待合も集まり繁栄。終戦まで色町として続いた。ぶしつけながら、きっぷのよい芸妓たちは「馬賊芸者」の異名をとった。
・戦後の昭和24年(1949)、芸妓の一人が株式会社水茶屋巻番を設立するが、2年後には移転、さらに昭和44年(1969)には合併で博多巻番となり、水茶屋巻番の名前は消滅した。
ざっと上記のような流れになるようです。ジイジ様の御祖父様らが写真を撮影されたのはちょうど巻番の最盛期に当たる時代ではないでしょうか。この辺りは空襲を受けなかったため、少なくとも昭和末期までは水茶屋時代の建物が一部残っていたようです。面白そうな話なので、そのうち現場リポートをさせていただきます。
水茶屋