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ブレディ飛行場の航空写真

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 雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場)に滑走路が健在だった頃の航空写真を国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で見つけた。米軍に接収されていた1956年1月に撮影された写真で、撮影者も米軍。米軍はここをブレディ飛行場と呼び、主に朝鮮戦争(1950~53年)の際、輸送基地として使用していた。撮影前年の55年には事実上、使用を取り止めており、65年には滑走路自体を撤去している。よく見掛ける航空写真はこれ以降に撮影されたものだ。(滑走路の両端に記されている数字は方角を示したもので、詳しくはJALの解説ページへ)

 飛行場は1936年、600㍍の滑走路1本で開港し、後に800㍍2本に大拡張されたことになっている。しかし、福岡第一飛行場設置を告示する36年5月27日の官報には「滑走区域 東西最大約七百九十メートル 南北最大約八百メートル」と記されており、あらかじめ2本の滑走路が計画されていたことがわかる。1936年は暫定的な開港だったのだろう。

 2本の滑走路については1,700㍍、1,300㍍の長さだったという情報もある。例えば、国営海の中道海浜公園事務所(海浜公園はブレディ飛行場を含む米軍基地「キャンプ・ハカタ」の跡地に建設されている)のサイトには「1,700mと1,300mの2本の滑走路を擁し、京城、大連、上海、台北へと飛んでいました」と紹介されている。『博多郷土史事典』(井上精三、葦書房、1987)にも同様の記載がある。後に滑走路の再拡張が行われたのかもしれないが、正直なところ信じ難い。

 写真や地図でもわかるように、雁ノ巣地区は玄界灘と博多湾に挟まれた非常に幅の狭い土地で、北側の玄界灘沿いには当時も今も鉄道(現在はJR香椎線)が走っている。鉄道を撤去し、海を埋め立てない限りは滑走路延長が可能だったとは思えないのだ。上の写真を参考に、グーグルマップで距離を測ったところ、1,700㍍の滑走路を建設するのは東西方向、南北方向とも不可能。1,300㍍ならば、ぎりぎり可能という結果だった。

 
「海の中道海浜公園」という記事の中で書いたが、ブレディ飛行場は1972年6月に返還され、跡地は現在、総合スポーツ公園・雁の巣レクリエーションセンターとなっている。返還は既定事実だったため、レクセンター建設工事は前年の71年から始まっていたらしい。米軍自体も滑走路撤去以降はここをゴルフ場として利用し、ブレディ・ゴルフ場と呼んでいたという。

 航空写真の右端を見ると、4棟の格納庫が並び、さらに少し離れた北側にさらに1棟の格納庫があったことがわかる。これらの廃虚は戦後長らく放置され、2002年まで残っていたことを以前紹介した(
「雁ノ巣飛行場の格納庫」)。下に再掲した写真は、近く取り壊しが始まると聞き、2000年11月、初めて買ったデジカメ、ニコンCOOLPIX800で撮影したものだ。211万画素のカメラだから、画質はずいぶん粗い。

 写真撮影のしばらく後、航空ファンらの間から上がった保存を求める声を受け、福岡市教委が専門家に委託して格納庫の学術調査を行った。専門家は「保存に値する歴史的価値がある」という結論をまとめたというが、報道機関が暴露するまで市教委がこれを公にすることはなかった。そもそも「解体ありき」であり、調査はポーズでしかなかったのだ。それなのに「保存すべきだ」という、恐らく予想外の結果がまとまり、市教委としては隠蔽する以外になかったのだろう。


雁ノ巣飛行場跡の格納庫2
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