油山の山麓にある海神社

2017年06月11日
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歴史雑記
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 以前、寺同士の争いで滅びたと伝えられる油山天福寺跡を探して油山(597㍍)をさまよった際、麓の福岡市早良区西油山の集落に海(わたつみ)神社があり、「山里に海を名乗る神社があるとは」と不思議に思い、立ち寄ってきた。急な石段の先に、小さいながらも思いのほか立派な社殿があった。

 帰宅後に調べてみると、山を挟んで反対側に当たる城南区東油山、油山観音正覚寺境内にも全く同名の神社がある。古代の遣唐使たちが脊振山に登り航海安全を祈ったという故事もあるぐらいなので、ひょっとしたら山で海神を祭るのは珍しいことではないかもしれない。だが、福岡都市圏にある「ワタツミ神社」(漢字表記は海のほか、綿津見、綿積、少童)と、これらの神社の総本社と言われる東区志賀島の志賀海神社の位置を地図に落としたところ、やはり大半は海、または河口に面した場所にあり、東・西油山の海神社の立地は異色だった。

 大正時代、早良郡役場によって編まれた『早良郡志』(復刻版は名著出版、1973)によると、西油山の海神社の祭神は底津少童命、中津少童命、上津少童命。黄泉の国から戻ったイザナギが身を清めた際に生まれたと伝えられる神々で、航海安全や漁業などの守り神だとされる。例祭は9月19日、氏子は25戸。一方、東油山の海神社は同じ海神ながら豊玉彦命(海幸・山幸神話で山幸彦と結婚する海の女神)を祭り、別名は龍樹権現。例祭は9月9日で、東油山35戸の産神だと記されている。両神社とも明治5年(1872)に「村社」に定められたとあるが、それ以外の沿革については記載がなく、山里でなぜ、海神が信仰されてきたのか理由は不明だ。

 『福岡県神社誌』(1945)も当たってみたが、やはり詳しい沿革は書かれておらず、東油山の海神社の項目に、現在では油山観音正覚寺に伝わる「粥占い」の説明がある程度だった。ただ、1709年に完成した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』に、西油山の集落の成り立ちについて以下の記述があった。「今の西油山の地、昔は中河原と云ふ。村里なく、田畠もなかりしに、近世田畠を開き、家を作りて村と成れり。村民樒の皮と葉とを多く取て抹香とし、福岡などに持出て売り、家産を助く」。

 西油山の集落は、移住者によって切り開かれた村だったことがわかる。時期は近世(近頃)とあり、福岡藩の新田開発の一環だったのではないだろうか。シキミの皮と葉で作った抹香を福岡の城下町で売って家計を助けていたというぐらいだから、それほど豊かな村ではなかったのだろう。この村を開いた移住者が何者だったかは書かれていないが、海神社も彼らによって創建されたのならば、海神を祭る海辺の民が開拓者だった可能性はあると思う。海の民が開拓民になった事情までは想像がつかないが。

 『福岡県の神社』(アクロス福岡文化誌編纂委員会、2012)によると、2012年1月現在、福岡県内には3,318の神社があり、このうち最も多いのは600社を超える天満宮で、県内での「天神さま=菅原道真」信仰の広がりを物語っている。続いて八幡宮、貴船社、熊野社、大山祇神社、祇園社、日吉社の順で、ワタツミ神社は8番目となっている。何社あるのか数は示されていないが、「筑後の有明海沿岸地方に多くのワタツミ神社がある」といい、やはり海辺にあるのが主流のようだ。


 ※2020年4月5日、記事を修正しました。
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