2017/11/10
トンカラリン再訪
熊本県和水町(旧・菊水町)に残る謎の遺構「トンカラリン」の資料を探していたところ、『熊本県大百科事典』(熊本日日新聞社、1982)のトンカラリンの項目に興味深い記述があった。排水路と考えられた時代の出版物であり、最初から「玉名郡菊水町瀬川字北原、長力にある水路遺構」と紹介されているのだが、これだけでなく以下の突っ込んだ記述があるのだ。
「明治一六年(一八八三)生まれの古老の証言などで、施工者は地主だった斉木次三郎、石工は民田久八・牛馬親子、造成時期は明治二八年ごろで、宅地や耕地を水害から守るために造られた水路とわかった」
3日更新の「トンカラリンを再訪したい」でも書いたが、トンカラリンとは1974年に存在が公になった全長440㍍あまりのトンネル状遺構で、石組みのトンネルをはじめ、地割れでできた溝(地隙)、その溝に石蓋をかぶせた箇所などからなる。調査を行った熊本県教委は78年、いったんは「排水路」とする報告書をまとめたものの、その後、農業土木の専門家による再調査で排水路説は覆された。しかし、排水路説が定着していた時代、施工者の個人名や築造時期まで具体的に明示されていたとは意外だった。
『熊本県大百科事典』で、トンカラリンの項目を執筆したのは地元・和水町の郷土史家。これだけ個別具体的な証言でありながら、排水路説が否定された今となっては誰一人気にかける様子はない。もちろん、長大なトンカラリンの全てを石工親子が築造したとは到底思えず、証言が全て真実だとは思えないが…。あれこれ考えても仕方がないので、取りあえず現地を見ておこうと思い、8日午後、急きょ思い立って20数年ぶりにトンカラリンに行ってきた。あいにくの悪天候で、地面はぬかるみ、しかも大半の場所が「危険」との理由で立ち入り禁止になっていたのは想定外だったが。昨年4月の熊本地震でトンカラリンは被災しなかったと聞いたが、和水町でも震度6弱の揺れが観測されており、トンネルの強度については不安が生じたのだろう。
現地には、以前はなかった大きなパネルが設置され、排水路説が否定された経緯が詳しく説明されていた。図らずも悪天候の日に見学したため、排水路説が怪しいことは実際に遺構を見て納得がいった。地隙そのままの場所には所々水たまりができていたが、水が流れていく様子はまったくなかったのだ。ただ、耕作地の真下に当たる最上部の箇所には、斜面の下に石組みトンネルの小さな開口部があり、排水路の集水口にしか見えなかった。ここに限っては、水が流れていないことが逆に不思議だった。古老の証言が記憶違い、勘違いでないのならば、トンカラリンの遺構に手を加え、本当に排水路にしようという試みでもあったのではないかと想像を巡らした。
排水路説が否定された現在、信仰遺跡だったのではないかという説が有力視され、トンネルをくぐる行為が「再生儀礼」を意味していると唱える研究者もいる。寺院などで行われている「胎内くぐり」の大掛かりなものという見立てだろう。胎内くぐりは経験したことがないため何とも言えないが、石組みトンネルや地隙に蓋をかせぶた箇所の見た目は、レジャー施設にある冒険コーナーによく似ていると思った。ここを自由にくぐることができれば、子供たちはきっと大喜びするだろう。帰路、住宅街の坂道を下りながら、トンカラリンの本質は、案外そんなところにあるのではないかとバカげたことを思った。
- 関連記事
-
- 日拝塚古墳出土の金製耳飾り (2018/08/04)
- 米一丸伝説のモデルは… (2018/05/22)
- 郡役所の礎石が出土していた (2018/04/20)
- 康永三年銘梵字板碑、または濡衣塚 (2018/02/24)
- 廃棄された完全形の鏡 (2017/12/27)
- 「郷土の英雄」磐井 (2017/12/04)
- 江田船山古墳の石棺保存施設 (2017/11/12)
- トンカラリン再訪 (2017/11/10)
- トンカラリンを再訪したい (2017/11/03)
- 続・五郎山古墳の壁画 (2017/10/13)
- 多聞櫓は戦後の一時期、学生寮だった (2017/08/07)
- 「油山天福寺跡」探索行 (2017/06/04)
- 基山の「いものがんぎ」 (2017/05/22)
- 吉武高木遺跡、史跡公園に (2017/04/24)
- 博多のど真ん中にあった前方後円墳 (2017/04/19)
コメント
こんばんわ