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康永三年銘梵字板碑、または濡衣塚

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 福岡市博多区の石堂川河畔に、「康永三年銘梵字板碑」という県指定文化財がある。一般的には「濡衣塚」の名で呼ばれており、濡れ衣という言葉の発祥地などと紹介されることもある。しかし、濡れ衣の由来とされる説話が聖武天皇の時代(在位は724~749年)のものとして伝わっているのに対し、板碑が建てられたのは、銘に従えば、南北朝時代の1344年(康永は北朝の元号)。板碑は建立後、時代を約600年も遡って奈良時代の話と結び付いたことになる。

 濡衣塚の説話は、貝原益軒が1709年(宝永6)に完成させた福岡藩の地誌『筑前国続風土記』にも紹介されている。聖武天皇の時代、佐野近世なる者が筑前守として赴任してきたが、妻が病死し、後妻を迎えた。この後妻が、前妻が残した美しい娘をねたみ、漁師を買収して「娘さんが釣り衣を盗んでいって困る」と佐野に告げ口させた。佐野が娘の部屋に行くと、娘が濡れた釣り衣をかぶって寝ていた。後妻が掛けたものだが、まんまとだまされた佐野は激怒し、即座に娘を殺した。翌年、死んだ娘が佐野の夢枕に立ち、「濡衣の袖よりつたふ涙こそ無き名を流すためしなりけれ」などの歌を詠んだ。佐野はここで初めて、後妻の陰謀だったことに気付き、後妻を離縁した後、自分は出家遁世したーーというのがあらすじだ。

 博多区千代3にある松源寺の住職だった佐々木滋寛が著した『濡衣塚の伝説と古跡』(1973)によると、この説話が初めて文献に登場するのは1641年(寛永18)の『雑和集』で、益軒はそれを引用したらしい。江戸時代に文献初出ではあまりに新しすぎ、この説話が濡れ衣の語源になったというより、濡れ衣の言葉が出来た後に創作された話ではないかと疑わしくなる。もちろん、成立自体はもっと古かった可能性はあり、佐々木滋寛の見立ては、平安時代に『落窪物語』など継子いじめの物語が生まれた中で、この一つが筑前に伝わったというものだ。ただ、後述するが、その滋寛にしてもこの説話が濡れ衣の語源という説には懐疑的だ。

 一方、梵字板碑は主に南北朝期に盛んに建てられた供養塔の一種。表面にはサンスクリット語の文字(梵字)が刻まれており、この一字一字が仏を表している。問題の板碑は高さ165㌢、幅145㌢の玄武岩製で、刻まれているのは大日如来、宝幢(ほうとう)如来、天鼓雷音(てんくらいおん)如来を意味する3文字。福岡市教委発行の『福岡市の板碑』(2002)によると、これを含め市内では375基の板碑が確認されているという。この板碑がなぜ、濡れ衣説話と結び付いたのかについては、残念ながら、疑問を解消してくれる資料が見つからなかった。

  『濡衣塚の伝説と古跡』によると、明治30年(1897)には濡衣塚堂、大師堂、通夜堂が建てられ、戦前までは毎年8月16日には夏祭りが盛大に営まれていた。戦時中の昭和20年(1945)6月4日、強制疎開によって建造物は撤去されたが、毎年の祭典は松源寺によって続けられていたという。佐々木滋寛が住職を務めていた松源寺は山号を「濡衣山」といい、寺の発祥について「もとは濡衣塚の堂守をしていたものらしく」と滋寛は記している。

 佐々木滋寛については、彼の著書『博多年中行事』(1935)をこのブログで何度か取り上げたが、まさか濡衣塚を守ってきた当の本人とは知らなかった。その滋寛が濡れ衣の語源として「妥当」と評価したのは、大正時代に刊行された辞典『海録』に書かれていた解釈で、「人ノ科ヲ負フハ、蓑ナクシテ雨ニ衣ノ濡ルルヲ、実ノナキニカケテ、無実ナル意ノ謎語ナリト云」というもの。「実の無し―蓑なし―濡れる―濡衣」という言葉遊びから濡れ衣という言葉は生まれたというわけだ。その根拠について、滋寛は「由来日本人は言語の遊戯が好きな国民で」としか記していないが、ひょっとしたら、福岡に伝わる濡れ衣説話の成立は意外に新しいという感触でも持っていたのだろうか。何にせよ、濡衣塚の当事者が、その語源説に否定的なのは面白い。

 それにしても、継子いじめの物語に出てくる父親はおおむね無能な人間だが、佐野近世の愚かさは特筆ものだ。こんな輩が本当に筑前守だったら、領民はたまったものではなかっただろう。
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