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発掘調査が続く潮見櫓跡、復元はいつになる?

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 福岡城址の潮見櫓跡で発掘調査が行われている。私が気付いたのはつい最近だが、現地の立て看板によると、調査は昨年8月に始まったとのことで、終了期日については「未定」と結構衝撃的なことが書かれていた。何が衝撃なのかと言えば、福岡市が2014年6月に策定した『福岡城跡整備基本計画』の中で、潮見櫓は2014年度から18年度までの5年間で復元されることになっていたからだ。つまり今年3月までに復元工事が完成していなければならない。ところが、潮見櫓跡地ではまだ、いつ終わるかもわからない発掘調査が続いている。2015年9月に書いた「動き出した潮見櫓復元」で、「そう遠くない将来、福岡簡保事務センター横の土塁上に姿を現すことだろう」と予想したが、現実にはまだまだ時間がかかりそうな気配なので、見込み違いをお詫びする。

 『福岡城跡整備基本計画』は2014年度から28年度までの15年間で、福岡城にあった数々の建物などを復元、または現存する建物を修理しようというもので、文化施策というよりは、熊本城整備に倣った観光施策の面が色濃いと思う。整備事業は2018年度までの短期計画、19年度から28年度までの中期計画の2期に分けられ、短期計画では長屋門や多聞櫓の修復、潮見櫓復元、中期計画では武具櫓、裏御門、太鼓櫓、扇坂等の復元が予定されていた。長屋門、多聞櫓の修復は予定通り行われ、すでに完了している。

 事業費は短期が約22億円、中期が約48億円の計約70億円。このうち3億5000万円を市民らからの寄付で賄う予定だったが、NHK大河ドラマ放映で一時燃え上がった黒田官兵衛ブームも沈静化し、思うように寄付が集まっていないと報道されていた。

 ところで、なぜ短期計画の段階で早くもスケジュールは遅れ気味なのか。市は遅れを公式に認めているわけではないので、理由は全く不明だが、少し思い当たるところはある。上記「動き出した潮見櫓復元」は、基本設計を担当する業者の公募が始まったのを受けて書いたもので、この時は2015年度中に基本設計を終え、16年度から実施設計に移ると公表されていた。ところが、市側が昨年3月の議会特別委で公表した今年度のスケジュールでは「復元に向けた基本設計に着手する」となっているのである。

 ちょっと信じ難い話だが、今頃になって発掘調査が続いているところを見ると、恐らく2015年度の段階では、基本設計をやろうにも、そのためのデータが足りなかったのだろう。潮見櫓跡地では1990年代、この土地を駐車場などとして使用していた国立福岡病院の移転に伴い、複数回にわたって発掘調査が行われているが、これらの調査結果だけでは不足だったのだ。

 今年度は「基本設計に着手する」だけなので、完了は2019年度以降。さらに続いて実施設計、その後に復元工事が始まるという段取りを踏まえると、短期計画で終わるはずだった潮見櫓復元は、中期計画に相当ずれ込むことになる。これにより中期計画のスケジュールにも影響が出るはずで、財政事情など城跡整備を巡る状況に変化があれば、計画自体に黄信号が灯ることもあり得るだろう。行政というものは年度ごとの予算で動いているので、きちっとしたものだと思ってきたが、こういった「基本計画」「基本構想」などというものは相当アバウトなものだとようやくわかってきた。

 最後に潮見櫓について記しておくと、この櫓は福岡城の北西の隅にあり、博多湾の監視を担っていたと言われている。明治時代に花見櫓とともに福岡藩主・黒田家の菩提寺、崇福寺に払い下げられ、仏殿として利用されていたが、1991年、将来の復元に備えて市が買い戻し、解体保管している。実は買い戻した当時は月見櫓だと信じられていたのだが、その後の月見櫓跡地の調査で、基壇から考えると建物は5㍍×7㍍のサイズに収まるはずなのに、実際は8㍍×7㍍と大きすぎるなど疑問点が持ち上がった。さらに部材の中から実際は潮見櫓であることを示す札も見つかり、伝わっている櫓名に混乱があったことが確認された。

 紛らわしいのは潮見櫓だと伝えられてきた別の櫓があったことで、こちらは黒田家別邸に移されていたが、1956年、現在地の下之橋御門横に復元された。現在は「伝」潮見櫓と呼ばれているが、正体は太鼓櫓らしい。潮見櫓だと思われていたのに、なぜ本来の跡地に復元されなかったのかと言えば、当時、米軍が跡地を駐車場として使用していたためだという。事情があったにせよ、史実を無視した復元には当時、批判があったとも聞くが、潮見櫓があるべき場所に別の櫓が建っているというおかしな事態は、結果的に避けられた。
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