2019/06/17
宮崎市が掩体壕を取得・保存へ
宮崎市がようやく重い腰を上げたようだ。宮崎空港(旧・海軍赤江飛行場)近くに位置する同市南部の赤江・本郷地区には、戦時中の1944年に造られた掩体壕7基が残っている。地元住民らからは長年、戦跡公園として保存・整備するよう求める声が上がっていたが、宮崎市は無視してきた。こういった戦争遺構の保存を図るには絶好の機会だと思われた戦後70年の節目(2015年)にも同市は重い腰を上げることなく、もはや機会を逸したと思っていた。ところが、2019年度の新規事業で掩体壕取得事業を進めることを同市は突如として打ち出し、その予算として4900万円を計上した。何があったのかは知らないが、保存を訴えてきた住民らにとって朗報であるのは間違いない。
掩体壕とは、軍用機を米軍の空襲から守るための分厚いコンクリート製のシェルターで、本郷地区の住宅街に「一式陸攻」を収容したとされる大型の4基、赤江の農業地帯に「零戦」用の小型3基が残り、便宜的に1~7号壕と呼ばれている。サイズは、本郷地区の1~4号壕が幅27~29.5㍍、奥行きが21~25㍍、赤江地区の5~7号壕が幅14~19㍍、奥行き9.5~10.5㍍。赤江の3基のうち2基は宮崎空港敷地内にあり、国交省が所有しているが、残る5基は民間の所有だ。
4900万円の予算では、この全てを取得するのは到底不可能で、宮崎市の予算案説明資料には「赤江・本郷地区に残る掩体壕の中から地元団体等の意向も踏まえ、保存状態・接道条件等を勘案し、保存活用に最も適した掩体壕を取得」とある。取得後は、壕の周囲にフェンスを設置し、駐車場も整備するという。4900万円の内訳は、用地取得費が4070万円、周辺設備工事費が600万円、移転補償費が230万円。具体的にどの掩体壕を取得・保存するかは、いかにも「今後検討する」ような書き方だが、予算の細かい内訳が明示されていることを考えると、すでに候補は決まっており、地権者とも話がついているのではないかと思う。
先日、宮崎市に行く用事があったので、これまで見学する機会のなかった本郷地区の1~3号壕を見てきた(写真は2号壕)。農業地帯のど真ん中にある赤江の掩体壕も奇観だったが、閑静な住宅街の中にコンクリート製の巨大な掩体壕が鎮座する景観も十分異様だった。中には倉庫や車庫として活用されている掩体壕もあると聞いていたが、事業所の敷地内にあり、緑の雑草で覆われた1号壕は現在も車庫として利用されている様子だった。2、3号壕も過去には倉庫として利用されていたらしく、2号壕の広い内部には廃物らしきものがポツポツ置かれていたが、3号壕は現在では完全に“空き家”のようだった。この二つの掩体壕は道沿いにあり、比較的見学しやすかった上、そばには駐車場に整備できそうな空き地もあった。宮崎市が取得するとしたら、この二つが有力ではないだろうか。
なお、予算説明資料には、掩体壕取得事業の担当課は総務法制課と記されている。宮崎市の公式サイトを見ると、文書の審査や情報公開、条例、規則及び訓令の審査などを担当する課で、なぜこの課が掩体壕の保存を担うのか謎だが、何か事情があるのだろう。
参考資料は『宮崎の戦争遺跡-旧陸・海軍の飛行場跡を歩く』(福田鉄文、2010)など。赤江の掩体壕については過去に以下の2本を書いている。
▽放置される掩体壕(2013/08/20)
▽赤江の掩体壕再訪(2016/05/06)
- 関連記事
-
- 福岡城潮見櫓の復元、ようやく着工? (2020/05/12)
- 宮地嶽古墳、被葬者は胸形か阿曇か (2020/04/06)
- 神籠石は朝倉橘広庭宮を守っていた? (2020/03/30)
- 裁判所跡地、古代防衛施設の遺構確認調査へ (2020/03/18)
- 首羅山遺跡登山道、28日開通へ (2020/03/02)
- 鷹キャンプついでに生目古墳群を散策 (2020/02/18)
- 令和になって変わった金隈遺跡発見の経緯 (2019/09/29)
- 宮崎市が掩体壕を取得・保存へ (2019/06/17)
- 金栗四三の出生地で桜と史跡を見てきた (2019/03/27)
- 発掘調査が続く潮見櫓跡、復元はいつになる? (2019/01/12)
- 日拝塚古墳出土の金製耳飾り (2018/08/04)
- 米一丸伝説のモデルは… (2018/05/22)
- 郡役所の礎石が出土していた (2018/04/20)
- 康永三年銘梵字板碑、または濡衣塚 (2018/02/24)
- 廃棄された完全形の鏡 (2017/12/27)